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第六話 「女心とシマ」

 

モト子を怒らせたのは予想外だった。まさかあんな所に地雷があったなんてユウイチは想像もしていなかった。大雨の池袋デートの日、地下のコーヒーショップで二人きりになったユウイチとモト子はいつもよりゆったりと時間を過ごしていた。狭い店内の小さなテーブルで向き合って他愛のない会話をするだけの時間は今までのどのデートよりもデートらしく見えた。しかし今、ユウイチは一人。モト子の居なくなった席にぽつりと座っている。妙にいい姿勢でゆっくりカウンターの方へ首を回すとチェックのべストを着てカップを磨くいかにもなマスターと目が合った。マスターは小さく会釈をしたがユウイチは平べったく開いた目で瞬きも会釈も返さず首を元の位置に戻した。

 

 

「ねぇ、モト子……って呼んでいいかな」ユウイチがそう言った時、モト子の顔が一瞬で歪んだのが分かった。さっきまで二人の為に広がっている様に感じた芳ばしいコーヒーの香りや喫茶店らしい暖色の照明はモト子の表情と一緒に一気にただの匂いと電気になった。

 

モト子の表情の変化を感じたユウイチは瞬時にフォローを入れた。「全然、深い意味は無いんだ。ただ、モト……遠山さんもデート中は敬語使わないって言ってたし、だったら名前で呼べばもっとほら、心が近くなって親しみがでるじゃ……」ユウイチはあっと言う間に体中に汗が染みだしているのを感じていた。と、同時にどうして自分は人に対して言い訳をしないといけないほど慌てているのだろうという気持ちにもなる。それがいかに好きな人であったとしても。自分はただ、自然に思った事を口にしたいだけなのに。するとモト子は少しだけ口を尖らせた後「小野さんはどうして一緒になろうとするんですか?」と言った。ユウイチは「一緒?一緒って何?」と詰め寄る訳ではなくとぼけた様に、それからチャンスがあればまたすぐ穏やかな空気に戻るように出来るだけ感情を入れずに聞いた。しかしユウイチのかすかな期待はモト子には届かず既にしっかりとその扉は閉じられてしまっていた。

 

「名前で呼んで、親しくなって、もっと打ち解けて?境界線がなくなって、混ざってしまおうとしてるんですか?」

 

モト子の言った事の半分以上理解できないユウイチだったがモト子がすでに敬語でしか話さなくなっていた事だけには、はっきりと気づいた。「いや、ごめん、ごめん。だったらいいよ。ちょっと思いついて言っただけなんだ。ほんと忘れて。名前なんて呼べればいいんだし、今まで通り苗字でいいよ」ユウイチはそういうともう一回コーヒーゼリー食べる?とへたくそにも程がある作り笑顔でメニューをモト子に差し出した。するとモト子は座っている椅子の背もたれに掛けてあったカバンを引き寄せ、財布から千円札を出してテーブルの真ん中にスッと置いた。ユウイチは「え?あ?帰る?いいよ、俺出すよ」と慌てて言う。慌て過ぎていつの間にか腰が軽く浮いて空気椅子状態になっていた。「小野さん、小野さん!」モト子はいつもの慌てて何かを取り繕う癖のあるユウイチを遮るように制止して

「今日はわたし帰ります。それと……」

口ごもるモト子にユウイチは今度こそ食い気味に「それと?」と聞いた。

「2分オーバーしましたんで、次回で相殺します」そう言ってモト子はさっさと店を後にしてしまった。その後からユウイチは瞬きをした記憶が無い。

 

暫くの放心状態の後ようやく脳が動き出したユウイチはモト子の言った言葉を思い返していた。と同時に「次回は」と言っていた言葉も思い出す。2分超過分を相殺されても次回のデートがある事は間違いなかった。そんなに嫌な気持ちになったのに何で次回とかいうのか女子はわからん。と、ひとしきり放心すれば何となく他人事の様に面倒くさい感情を捨てる事ができる。ユウイチは割と得な性格をしていた。女子は男子にはわからない所があるもんだ。すっかり普段の調子を取り戻したユウイチはモト子から差し出された千円を使わずに『次回』返そうとポケットに入れ会計に向かった。その時、店のドアがカランと鳴ってすらっと背の高い男が一人店内を伺う様に入って来た。そしてユウイチの顔を見るなり「小野さん、探しましたよ~」と白い歯をムキっと出して笑った。

 

ユウイチがその男に声を出す前にズボンのポケットが震えた。モト子からのメッセージだった。「次の土曜に目白の切手博物館に行きませんか?」ほら、もう機嫌が治っているじゃないか。返事を打とうとすると「2160円です」とカウンターの中からマスターの声が聞こえた。「あ、まだ大丈夫です、これから僕ともう一杯コーヒーを飲むから」とユウイチが返事をする前に後から来た男が言う。何で?と言う間もなくまた携帯が鳴る。「予定はどうですか?モト子」あっちからもこっちからも同時に言葉が飛び交ってユウイチは頭を引っかきながらようやく一言を絞り出した。

 

「あんた、誰!?」

 

後から店に来た男は「シマ トオル」と言った。

 

 

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