第六回 「ジントニック:750円」

 

20歳過ぎの一時期、渋谷駅に程近いバーでアルバイトしていた。カクテルにハマッていた私は未経験者歓迎のバーテンダー募集を見て面接へ出向いたが、店長は男所帯に華を添える女子大生のお運びさんを期待していたようで、あやうくミニスカメイドみたいな制服を貸与されかけ、慌ててボウタイとギャルソンエプロンに替えてもらった。

 

数年後オノ・ナツメの漫画を読んだとき「あれ、出てる」と声が漏れたような細身の眼鏡紳士がマスターで、老若男女あらゆる客から、はちゃめちゃにモテていた。慣れたらいろいろ教えてあげるね、と言われていたが、ほどなく経験豊富な若い男性バーテンダーが増強され、学生バイトの私はカウンターから締め出された。「大学院って何やの、けったいな女やな」とこれもBL漫画でしか読んだことのないようなコテコテ関西弁で笑われた。

 

当時の私がカクテルにハマッていたのは、酒の味というより、そのカタログ性によるところが大きい。世界各国の国旗と首都を暗記するのが好きな子供だった。『聖闘士星矢』の登場人物一覧も擦り切れるまで読んで全員の誕生日と出身地と必殺技を憶えた。同様に、ジョンコリンズとトムコリンズ、ネグローニとアメリカーノ、ゴッドファーザーとラスティネイル、図鑑を眺めてはレシピのバリエーションと命名の妙を掘っていくのが好きだった。

 

ミュージカル『エニシング・ゴーズ』の冒頭、「マティーニちょうだい、ジンの代わりにライウィスキー、オリーブの代わりにチェリーを入れてね!」という台詞がある。もはやベルモットしか合っていない。行きつけのバーでマンハッタンを注文するのに、わざわざこんな捻った言い方をする、そんな大人の女がイケてるのだと、思っていたのだ、二十歳の頃は。

 

 

穴があったら入りたいが、当時はありとあらゆるバーでホーセズネックを注文していた。レモンの皮がくるくる巻きついたロングカクテルだ。2019年の今なら「インスタ映え」とでも言われそうだが、当時はさほどの人気メニューでもなく、一つ注文が入るたびにバーテンダーが新しいレモンを取り出して、いちいち皮を螺旋に削っていく。他の客に供するカクテルは三杯四杯を同時並行で仕込む多忙なバーテンダーも、このレモンを剥く間はすっかり自分が独占しているのだと、そのことに贅沢を感じている若造だった。

 

そうして止まり木で横についた大人たちが、メニューも見ずにジントニックを注文しているのを見ては、内心バカにする小娘だった。だってあなた、ここ、こんなおしゃれな老舗の名店で、そりゃないよ、ジンとトニック混ぜただけじゃん、きょうび居酒屋でも出てきますがな、もうちょっとなんか凝ったもん注文しなさいな、と思いながら、ブランデーとジンジャーエールを混ぜてレモン皮がくるくる浮いてるだけの酒を飲んでいたものである。

 

モテに精通した読者諸氏には言うまでもないことだが、カクテルで名高い店で一見客が一杯目にジントニックを頼むという行為は、居酒屋で同じものを注文するのとは意味がまるで違う。「鮨屋の玉子」と同じくその店の実力が凝縮された一杯で、手抜きがあれば一口でわかる。花形のショートカクテルよりもシンプルなぶん個性が出るし、バーテンダーもそれぞれに威信をかけている。こだわりの強い店でジントニックの注文が入ると、カウンターにピリッと緊張が走る。

 

バイトを辞めて大学院も出て出版社に勤めていた頃のこと。取材で知り合った仕事相手が「えっ、岡田さんあそこで働いてたの、俺、前の職場が近かったからボトルキープして毎週通ってたよ!?」と言うので驚いた。でもあそこ、店に女の子なんかいたっけ? と訝られ、ギャルソンエプロンのセクハラ抑止効果に改めて感謝する。「いい店だよえ、六本木方面はぼったくりの店も多いしさ、あの色男のマスターの×××××が、×××円の渋谷価格で飲めるなんて、最高!」

 

ジントニックが750円、キニーネの苦味が強く炭酸が弱めだったと思うが、どうにも記憶が曖昧だ。キスチョコ皿が1000円なのは、どう考えてもぼったくりだった。ウィスキー用の氷を丸く磨く方法を教わったあの店は、グラスホッパーには二種類あると教わったあの店は、まかないの味噌汁がやたら美味しかったあの店は、今もまだ同じ場所にある。あれから十数年経って少しは大人になった私、次に渋谷を訪れたら、マスターのジントニックを改めて飲んでみたい。