第七回 「芯付きの線香:220円(税込)」

 

日本一時帰国中、恒例の墓参りに行った。遠方に住んでいると命日に合わせて法要を催すのはなかなか難しい。混雑を避けて平日日中を選び、掃除をして花を飾り、手を合わせて世間話をして、食事と寄り道をして帰る。親戚を訪ねるのと変わらない簡単な家族行事だが、生きている人間の都合でアポイントも取らずに押しかけて、死んでいる人間を振り回しているような一抹の申し訳なさもある。

 

水桶に入った供花を選ぶのは夫の役目、ずらりと並んだうちから、いつも必ず中くらいの価格、かつ最もファンシーな彩りのものを指差す。白百合、かすみ草、ピンクのトルコキキョウ、「乙女か!」とツッコミながら買うのは私の役目で、ついでに線香も調達する。約一年ぶりに訪れた霊園売店のレジ横で、いつの間にか、線香が新しくなっているのに気がついた。

 

〈お線香が『芯付き』になり着火しやすくなりました!〉

 

新しい線香束は、中心部分に紙縒にロウを含ませたような火口がおさまっている。というか、線香束から白い火口が盛大にハミ出している。美観という意味では見事に損なわれており、半ズボンのポケットの裏地がハミ出ている少年や、白くなった耳毛のハミ出ている老人の、ちょっと迂闊でだらしない様子を見てしまったような気まずさが感じられる。

 

小高い丘の上にある墓地はいつ訪れても風が強く吹き抜けて、二束の線香に火を点けるのにずいぶん苦労していた。蓋の開いた一斗缶をそのまま石化させたような形状の竃にかがみこみ、二人掛かりで風を除けながら幾度かマッチを擦るのだが、なかなかうまくいかない。といって夫婦揃ってものぐさな気質で、わざわざ街場から別の線香を持参するほどの甲斐性もない。一軒しかない売店で、一種類しかない線香を買い、他の選択肢を考えようともしないまま、毎度毎度、火を点けるのに難儀していた。

 

普通、こうした状況下では革新的なイノベーションなど生まれないものである。このまま何年も何十年も、同じ売店で同じ銘柄の線香が売られていてもおかしくない。パッケージが同じまま中身だけ改良された線香を見て、「やるじゃねえか」と思った。不恰好なビジュアルも、機能性を重視した結果と思えば好もしい。

 

 

 

 

よく晴れた冬の日だった。我が家の墓がある区画までだらだら丘陵を上り、水桶をもう一つ借りて供花を移し替え、墓石を水で浄める。いよいよ新しい線香の出番だ。竃の中でマッチを擦って芯に炎を移し、傾けた線香束を左右に回転させて火を行き渡らせる。白い芯はさかんに燃えるが、線香部分へ移したい火を思うように制御できないところは、旧式のものとさして変わらない。もっとずっと劇的な変化を期待していた私は、いつまで経っても全体に行き渡らない火にイラついて思わずボヤいた。

 

「これは……あれでは……、昨今の日本、主に食品まわりで蔓延しているという、お値段据え置きで容量が減る、アレなのでは……?」

 

詳しくはTwitterのハッシュタグ「 #くいもんみんな小さくなってませんか日本 」をご参照いただきたい。二十年以上続くデフレ不況のあおりを食って、板チョコもおにぎりも缶詰も、気づかれぬように量を減らしてこっそり実質値上げしているという、あの現象である。

 

線香も然り。中までみっちり詰まっていた旧式の線香束と違い、芯付き線香は外周を二、三本ずつの線香が覆っているだけだ。中心部は大きな芯が占めてスカスカになっているのに、価格は改定されて税込205円が220円に上がった。もしかして、火が点きやすくなったのは、移すべき線香の本数が減ったからでは……? と利益率計算を始めたくなるのだが、真面目な夫は「お墓でそういうこと言わないの」という表情で、相槌一つ打ってくれない。

 

八割方は火が回ったか、というあたりで見切りをつけて墓石前の香炉へ供えた。たしかに時短にはなったが、何本もマッチを擦って悪戦苦闘していた旧式の線香も、だいたい八割方で諦めていたので、大差ない。違いといえば、かつてないほどもうもうと煙が上がっていること。全身が燻されるほどの勢いだ。これは着火のしやすさ以上に如実な達成感がある。線香の本数を減らし、芯を取り付けると同時に、煙が出やすいように線香自体の成分を変えたのかもしれない。と思ったが、夫には言わずにおいた。

 

目を閉じて手を合わせ、ご先祖様そっちのけで線香メーカーの会議室へ想いを馳せる。原料高騰に伴い悲鳴を上げる工場。おたくの商品は使いづれえんだよ、と鳴り止まない苦情の電話。コスト削減と顧客満足度とを天秤に掛け、そのどちらも満たすような開発改良を求められた若き社員たちの奮闘を空想する。見栄えそっちのけで着火しやすさを追求し、煙の出をよくすることで目をくらます。このバランスに落ち着くまで、どれだけの試作品を燃しながら眠れぬ夜を過ごしたのだろう。やるじゃねえか。

 

墓参りは、生きている人間の都合で回る。いくら故人を偲ぶためとはいえ、結局は生きている人間の気持ちを整理するために執り行われる行事である。いつ行っても変わらず出迎えてくれる墓があるのは有難いが、いつ行っても変わりばえのしない霊園売店の、ずっと時計が止まったままのような侘しさには気が滅入る。墓石が動かないのをいいことに、何年も何十年も同じ場所へ閉じ込めて、生きている人間の都合で振り回しているようで申し訳ない。

 

墓前に手を合わせ、「私たちが生かされている時代は、おかげさまで、少しずつ、少しずつ、良くなっていますよ」とご先祖様へご報告できることが、あまりにも少ない時代でもある。何かちょっとでもイノベーティブなことが生じているなら、ぐちぐち言わずに諸手を挙げて歓迎したほうがよい。過去へ退行するよりずっとマシだ。あなたがたが託してくださったよりよい未来へ向かって歩いてゆきます。もはや発煙筒かというレベルでもくもく煙を吐き出す新型線香に燻されながら、そんな感謝の祈りを捧げた。

 

なお、芯付き線香の横でこちらも新しく売られていた伊藤軒「くるみ餅のみみ」(税込360円)のほうは、ぎゅうひ好きにはたまらない大変素晴らしいお菓子だったので特筆しておきたい。御霊前でコスト計算するのは不謹慎、とはいえ、俗世へ還ってくるみ餅のみみを頬張った我々夫婦は「これが3ドル!」「日本やべえ!」「次はあるだけ買ってこよう!」と来年の墓参りを楽しみにしている。

 

 

 

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