第八回 「GapFitのレギンス:11.99ドル」

 

数年前、「GapBody」という部屋着のラインを大変気に入って、狂ったように買い漁っていた。主力商品であるトレーナーやジーンズでもなければ、コートや小物類でもない、肌触りのよいTシャツやキャミソール、まったりしたスウェットパンツの並ぶ「GapBody」の陳列棚の前でだけ、三、四着に一着くらいの高頻度で物欲を刺激された。あれはきっと当該部署に三、四名のデザイナーがいて、そのうち一人と私の趣味嗜好がぴったり合っていたのだろう。そうに決まっている。

 

蜜月は長くは続かなかった。やがて、セールに赴いても新作を眺めても一着もときめきを感じないことが数度繰り返され、そして私は私の運命の相手がGapBodyの部署から離れたことを知った。Gapを辞めてしまったその名も無き「中の人」が、今どこでどんな仕事に就いているのか、私には知る由もない。きっと今はAnthropologieあたりに引き抜かれて、以前の倍以上の給料を稼いでいる。そうに決まっている、そうであってほしい。と投げる先を失った銭を手の中でちゃらちゃら鳴らすしかない。

 

彼あるいは彼女は、まずきっと歴史に名を刻むファッションデザイナーにはならないし、本国本社の正社員ならまだいいほうで、もしかすると明日をも知れぬ非正規雇用かもしれない。モードの世界でならデザイナーの交代は大きく取り沙汰され、死ぬまで袖を通すことのないであろう奇抜なコレクションを眺めてさえ、庶民同士で「いやー、変わっちゃったねえ」などと語り合えるのに。この哀しみは、なかなか分かち合える相手がいない。

 

「今のGapには欲しいものがない」と嘆くと、オシャレな友達からは「当然やんな」という顔をされる。彼らはそもそもGapをファッションブティックと認識しておらず、したがって私のGapBodyへの「失恋」話にもろくに耳を傾けてくれない。小さなお子様のいるご家庭からは逆に「ふざけんな」という顔をされる。いくら汚してもガンガン洗える子供服をあの破格値で売ってくれる衣料品店の有難味は、気ままにちゃらちゃら服を選んでいる成人のおまえにはわかるまい、というのだ。

 

■間はないのか、間は

 

自宅から程近い地下鉄駅の真上に大きなGapの店舗がある。足を踏み入れるのは年に一度くらい。とくに欲しいものはないのだが、必要なものは売っている。ジム通い用のレギンスである。

 

ニューヨークは高級スポーツウェアブランドの激戦区だが、私はストレッチの利いた布を前後に縫い合わせただけのアイテムに毎回300ドル単位を払えるほどの酔狂者ではない。AloYogaやBANDIERで買った服はしれっと外出着にするし、高頻度で雑に洗うと即傷むのでとても丁寧に取り扱い、汗みずくになるシチュエーションではまず着ない。笑わば笑え、この本末転倒こそがアスレジャー、あいつらは運動着であって運動着でないのだ。

 

そもそも、ただでさえ運動嫌いで着替えてジムへ出向くのが億劫なのに、毎度毎度の手洗いを推奨するスポーツブラなんて冗談じゃない。毎日のように乾燥機へ放り込んで何も考えずガンガン回せる執着の浅いアイテムでなければ、続くフィットネス習慣も続かない。回り出したこのサイクルを極力止めないためには、いくらでも替えの効くような、心の底からどうでもいいと思うような、そんな消耗品が必要なのだ。というわけで、小さなお子様のいるご家庭とまったく同じ理由で私は、まるで愛を感じないGapのレギンスを愛用している。

 

今回買ったのはGapFitの「GFAST Crop」という型、ハイライズの膝下丈、レギュラーSサイズ。Sculpt Compressionという速乾性に優れたストレッチモデルだ。ちなみに前に買ったものも同じ素材だったが、三年ほど酷使したらビヨンビヨンに伸びきって、柔軟体操すると尻がハミ出る。さて、気になるお値段はいくらかな。Gapの店舗へ来るたび、レジへ商品を運ぶたびに、ほとんどギャンブルのような緊張が走る。

 

元の値段は69.99ドルと記載されている。そこに赤札が39.99ドルと貼られている。だが、まだまだ油断はできない。売り場のすぐ上にはでかでかと19.99ドルと掲げられていたから、おそらくはこの値段だろう。試着室でサイズを確かめ、レジへ運ぶ。ピッとバーコードが読み取られた途端、愛想のない店員が誰にともなく「はーいこれディスカウントねー」と棒読みで呟いた。すっかり忘れていたのだが、全品40%オフのセール中だった。8ドル引かれて、小計は11.99ドル。

 

 

BANDIERやSweatyBettyの十分の一以下の価格だ。ストレッチの利いた布を前後に縫い合わせただけのアイテムにとっては、これこそが妥当な値段なのかもしれないが、それでもやっぱり、腰砕けの破格値。「肚を据えて覚悟していたよりも、ずっと、安かった……」という事実に打ちのめされながら店を後にする。

 

安く買えたんだからいいじゃないか、と考える人も多いだろう。でも、それにしたって安すぎる。セレブな広告塔を雇って200ドル以上のレギンスを売る虚業に走れとは言わないが、財布を開きながらも縫製工場での児童強制労働問題などが脳裏を離れない。三年保つなら50ドルは出すよ、間はないのか、間は。

 

かつて恋したGapBodyの中の人は、この同じ空の下、どこかで息災であろうか。その才能には正当な給料が支払われていたのか。近所に住んで四年目になるが、この店舗が全品40%オフのセール期間中でなかったためしがない。回り出した大量生産大量廃棄のサイクルを、どうにか止めてもらえないものか。

 

SNSに書き込めば「嫌なら買うな!」と炎上するのだろうけど、いくら燃えても私には「正しい値段」がわからない。レジでピッと正解の数字を知ってもなお、緊張が解けない。矛盾の中でもがく脚は、何も考えず乾燥機に放り込まれる千円ちょっとのレギンスに包まれて、そして薄利多売のファストファッションからは、どんどん遠のいていく。

 

 

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