第七回「自分にモテなきゃはじまらない」

 

「モテに関する連載をはじめたと言うが、いったいいつになったらモテについて正面から語るのか」と、ネットの知人に煽られた。

正直、わたしは世間一般で言われる「モテ」について、あまりポジティブに語る言葉を持たない。それは周囲にもモロにバレている。モテの話をするたびに、いろんな人からいろんな形で「モテたいと思っている人間の素行と態度ではない」と言われている。

具体的にはわたしという人間のトータルから受ける印象、ファッションや言葉や趣味や態度から発散しているものすべてが「あなたを受け入れ、あなたに好感を持ってもらえるようにふるまいます。わたしを好きになってくれたらうれしいな」ではなく、「わたしはこういうものが好きなのであり、あなたがそれを好きかどうかは知ったことではない(が、それを受け入れてくれるかぎりにおいてあなたと仲良くしたい)」というメッセージを発している。年を取って趣味嗜好が固まるにつれてその傾向は強まり、モテからは遠ざかるばかりだ。

そもそも男の「モテ」は、美貌や知性や財力など、人として素直に賞賛されるような突出した資質と共に語られることが多い。それに対して、世間に溢れる女の「モテ」とか「男ウケ」のテクニックは、とにかく相手を委縮させずにいい気分にしよう、ということにやたら重きが置かれていて、それが気持ち悪いのだ。

 

ちょっと前に「ちょうどいいブスのススメ」というドラマの企画がネットで炎上し、最終的には改題するという騒動があった。

「ちょうどいいブス」というのは、男からすると「酔えば抱けるくらいのブス」、という意味らしい。「抱ける」と言うのは「抱いて!」と言われてからでも遅くないと思うが、このキーワードを唱えだしたのは女性の芸人さんで、しかも芸人仲間の男からかけられた言葉を自らキャラクターとして押し出しているのが悲しすぎる。

「お前はブスだ。でも酔ったら抱ける」と飲み会で男に言われたら、「そうかそうか。お前に抱かせる体も飲ませる酒もないけどな」と、そいつの頭でクラッシュアイスを作ってメガハイボールを飲むくらいのことは許される。しかし、実際には彼女はその評価をガチガチに内面化するばかりか、他人にまでオススメしてしまった。そういう素直すぎる人だからこそ、暴言のターゲットに選ばれたともいえる。奴らは、攻撃する相手を本当によく見ている。

タレントというのは、人からどう見られるのか、どういう立ち位置を確保すればよいのかを吐くほど考え詰めている人たちだ。蔑称に乗っかって自虐することが”おいしい”という直感があったんだとしたら、こんな辛いことはない。実際にそのキャラクターで一時は仕事もおおいに増えたんだろうし、ドラマと同タイトルの本を出した時点では特に炎上もせず、喜んで本を読んでいた女性たちがいたんだろう、というのがさらにキツい。

ある環境で貶められた人が、自虐をネタにして状況を変えようとすることは、悲しいけれどよくある。それで少しでも気持ちが楽になったのならば、残念ながら責められない。しかし、他人にまでその自虐を強制したら、その瞬間から加害者だ。

「あなた、自分を美人と勘違いしたブスになっていませんか? ちょうどいいブスになってモテてみませんか?」という脅しと懐柔は、「この煮えたぎる泥ですが、首まで浸かってみるとそれはそれで居心地が良くって。あなたもどうですか?」と、他人に煮えたぎる泥をなすりつけて回っているのと同じことだ。

 

「ちょうどいいブス」は、自分が美しくないことを自覚し、分を弁えることからスタートすれば美人に負けないくらい男に愛されるふるまいができますよ、というモテ不安商法だ。モテとコンプレックスは分かちがたく結びついているし、正解がないジャンルなので不安商法がはびこりやすい。こんなもんが世間にまかり通るならば、それは世間のほうが間違っている。だいたい世間というのは、間違っていることが多すぎる。

むしろ、「自分は誰が何と言おうがめちゃくちゃキュートだ」あるいは「自分では自分の容姿を気に入ってはいないが、そのことはわたしという人間の価値に関係がない」などと言い切るところをスタート地点としたい。モテ指南にもいろいろあるが、自分が自分にモテるところからはじまらないモテ指南は、たとえそれが一人でいなくてすむ早道だったとしても、断じて受け入れるわけにいかない。

 

「オタサーの姫」も、「ちょうどいいブス」と同じ線上にある苦手な言葉だ。「ちょうどいいブス」が分を弁えたブスなら、「オタサーの姫」は勘違いしたブス、実はたいしたことない女が狭い世界の中で女慣れしていないオタクにちやほやされている、という評価者のニュアンスを汁気たっぷりに含んでいる。これも重宝されている言葉だが、わたしに言わせたら「ちょうどいいブス」よりよっぽど幸せで健全だ。

「オタサーの姫」という言葉は、文字数は極端に短いが群がるオタクも十把ひとからげにバカにしているという点で、言葉としての力(鮮やかすぎる暴力)がある。が、女慣れしてようがしてなかろうが、好きなものが同じでいい感じの人が横にいたら好きになるのは人の基本的な心理であり、オタクもバカにされる筋合いはない(姫自身は純粋にオタジャンルを楽しみたいだけなのに色恋を持ちこまれて困っている、という別の弊害も無視できないのだが)。

「オタサーの姫」という言葉に同調して笑う人の輪の中で「勘違いして笑われるのは怖い」という圧が形成されていく。だが、実際は自分が尊重してもらえる自分だけの票田を、死ぬ気で手に入れるべきだと思うし、外野から登場する評価の暴力を、強気で跳ね返せる力も手に入れたい。

 

しかし、自分が自分でいさえすればよい、と言い切れるような健やかなプライドは、完全に自己評価だけで培養できるようなものでもなかなかない。

わたしの場合、インターネットをやっていて本当によかったと思う。ネットはとにかく広大で、好きなものの好きなところを執拗に唱えつづけていれば、遠くから嗅ぎつけた同好の士が集まってくる。そう、クジラの死肉を目がけて海底に集合する奇怪な生き物の群れのように……。

気持ち悪い例えをしておいてなんだが、そこで出会った「この人は自分を傷つけない」と思える友人たちは、わたしにとっては進むべき方向を知るための星座のようなものだ。もちろん海は広大なので、日常生活ではちょっとお目にかかれないレベルのクソ暴言にちょっとビックリすることもあるが、それも異世界遊覧の一興と言えなくもない。

好きなものと好きな人で心を鎧えるようになると、この世にあふれている理不尽に対して、丁寧に怒るチャンスを逸してしまう。しかし、自分が自分にモテることを阻害するような動きに出会ったら、たまには「それはおかしいし、面白くないし、そっちに着いていっても幸せにはなれない」と、自分にとっては当たり前のことでもくどくどしく表明していきたい。