第一回「1ドル紙幣:約120円」

 

物の値段というのは不思議なもので、材料費や原価にはほとんど関係なく、高く感じられたり安く感じられたりする。どんなものに幾ら払うのが「悪くない」取引なのか、なんとなくは社会全体と共有できているはずなのに、親しい人との間でさえびっくりされることだってある。この世のどこにも「正しい」価値なんてないのかもしれない。お金にまつわる話を書きませんか、と誘われて最初に思い浮かんだのは、そんなこと。

 

私が住んでいるアメリカのニューヨークでは、カネが汚い。アングラ地下経済とか汚職とか資金洗浄とかの話題を持ち出すのではない、単純に、貨幣が汚れているのだ。日本円を入れているときにはぴかぴかだった淡いピンク色の財布が、ドル札とセント硬貨を入れるようになって半月で真っ黒に煤けてしまった。

 

ヨレヨレの1ドル紙幣をチップ箱へ投げ込むたび、このクズみたいな紙片に約120円もの価値があるなんて到底信じられない、と思う。誰かがボールペンで電話番号など書き殴った跡が残っていたりもするし、平然と偽札が混ざっていたりもする。印刷がお粗末な偽札は一目見てすぐ気づくのだが、自動販売機以外ではまったく支障無く流通しているから、私もそのまま流してしまう。

 

そもそも、この街にはキャッシュオンリーならぬカードオンリーの店も増えている。新しくできたイケてる飲食店では、すっきりレイアウトされたレジにSquare決済の端末しか置かれていない。煤けて萎びてカビたような変な臭いまでする現金を出して使う機会はどんどん減り、たまに出すときには、感覚の戒め、リセットが必要になる。1ドルが約120円ではなく、ほとんど10円玉みたいに感じられるのだ。おっと危ない。

日本とアメリカ、いくら物価の違いがあるとはいえ、この10倍差はちょっとシャレにならない。正月の初詣で日本の神様に向かってお賽銭を投げるときは、1円も5円も10円もあんなにケチケチ数えてから放るのに、場所がアメリカに移っただけで、行きずりの人類にいきなり100円以上の価値のある紙片を渡してやるなんて、どれだけ太っ腹なのか。生まれ育った東京の町に今も残るあの駄菓子屋へ持って行ったら、これでどれだけのお菓子が買えると思う?

 


いつの間にか財布に紛れ込んでいた偽札。真札と並べると一目瞭然

◼️その金を払うのは、私

……と、この感覚にもまた、忸怩たる思いがある。もう40歳になんなんとしているいい歳した大人が、今なお「駄菓子」を基準に価値判断するのは、いかがなものか。私の人生の節目節目には、もっと有意義な眩ゆいお買い物がたくさんあって、もっと広い視野で比較対象とするにふさわしい、印象深い「物の値段」だって、キラキラと鏤められているはずだ。いい加減、なんでも蒲焼さん太郎にばかり換算するのはやめにしよう。

 

今日も私は、7ドルで買ったカットソーに48000円で買ったパンツを合わせて着る。出先で1本1ドルの水を買うのが惜しくて、1本25セント以下になる同じペットボトルを定期宅配させている。そのくせ仕事と仕事の合間に、さして美味しくもないチェーン店のカプチーノに4ドル5ドルを平気で支払う。1本120円以下でまとめ買いした日本製の耐水性ボールペンは、ニューヨークの画材屋で買うと、やっぱり4ドル5ドルはする。

 

伊勢丹で買った48000円のパンツはメイド・イン・チャイナ、東京の百貨店では絶対に値下げされないが、バーゲンの季節まで待てばこちらの輸入物セレクトショップでは100ドル台で投げ売りされるだろう。でも、サイズはXLしかないかもしれない。そして、私は今秋すぐ穿きたい。だから買った。買ってやった。蒲焼さん太郎4800枚分、などと換算するものか!

 

そんなとき、試着室を出て財布を開きながら、クレジットカードを渡しながら、脳内で高らかに鳴り響く音楽というのがある。消費行動のファンファーレ。「No Regrets!!」とがなりたてるHEAT WAVE山口洋、「I want it all」と甘く囁くk.d.lang、「お買いなさい、幸福を」と手招きする宝塚歌劇団、そして、和田アキ子。

 

名曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」の旋律に載せて、私の脳内で私だけの替え歌が阿久悠の歌詞を上書きし、私だけの和田アキ子が「その金を、払うのは、わたーしー♪」と歌い上げる。あなたに逢えてよかった、あなたには希望の匂いがする。町は今、眠りの中。人はみな、悩みの中。その金を、払うのは、私。買いたいから買ったった、払いたいから払ったった、とってちってた。誰にも何も言わせたくないが、ちょっと話を聞いてほしい、そんな物の値段について振り返りながら、その価値を自問自答する連載です。