第十一回「キャンパスライフ奪回作戦」

 

 

 

大分県で生まれ育ったというと、「出た! 男尊女卑アイランド九州!」みたいな反応をされることがある。「#九州で女性として生きること」というハッシュタグもネットで盛り上がっていたけれど、出身地に対する思いこみを個人にぶつけるのは失礼では……、と思うが、九州出身の人からも「あの男尊女卑アイランドの思い出を共に語りあいましょう……」というアプローチをとられることがある。

おそらく、「大分に生まれた女がはるか東京(今は上海)まで出てきているのには、それなりの故郷への反発エネルギーが働いているだろう」という想像があるのだと思う。その期待に対し、わたしは怒るなり共感するなりのはっきりした態度をうまく取れない。

 

男尊女卑な扱いを受けて育ったのはどちらかというとわたしの母であり、彼女は世間に恨みを返すべく娘たちにしこたま勉学を仕込むことにした。小学校と中学校までは地元の公立だが、高校からは私立高校の特別進学コースで、入試成績に応じて授業料が減免されるかわりに塾に行く暇もないくらい朝から晩まで勉強漬けになる。東大または医学部に進んだ生徒の人数で先生のボーナスが変わるという噂もあり、男尊女卑以前に勉強ができないと人権がなかった。「男女差別は許さん! 人はすべて平等に価値がない!」フルメタル・ジャケットな環境である。

ペーパーテストが得意で特に趣味もなく、家でも学校でも勉強さえしていればいいのは快適だった。家や学校以外でも男尊女卑に直面する機会が少なかったのは、わが家が親戚づきあいも近所づきあいも少なくて地元から浮いていたからだと思う。浮いていたのもあって、大分のことは「いつか出ていく場所」と認識していた。母の反発エネルギーが娘に充填されている。

 

そうして主体性なくぬるりと東京に送り出された春、東大で「インカレ(インターカレッジ=学際)サークル」というものの存在を目にしたときは衝撃だった。インカレサークルは他大学にもたくさんあるし、そこで広く出会いを求めるのもいい。しかし、男子は東大生限定なのに女子は他の女子大から駆り集めているというテニスサークルにはもう「露骨すぎるのでは……?」という以外の感想が出てこなかった。

「セレク(セレクション=選別)」という儀式もあって、イベント色の強いサークルでは運動能力以上に見た目やノリが求める水準に達しているかどうかを審査していた。所属する男子の人数に対して、女子マネージャーの数が明らかに多いサークルもある。

大学って、もっと男女関係なく人として尊重されるという建前があるところだと思っていた(サークルをもって大学を語られると、大学の中の人は嫌かもしれませんが)。実際には、東京医科大の入試における男女差別でペーパーテストですら男女平等でなかったことが発覚してしまい、現実のやばさには底がないと十数年後に思い知ることになるわけだが。

華やかでかわいいことを優先して求められ、それに率先して応えようとする女子たちと「優秀な男」としてちやほやされようとする男子たち、という欲望の構造がかなりの規模で組織化されていることがおそろしかった。「女は男を立てるもの」という思想の具現化に出会ったのはたぶんあれが初めてで、あれが初めてだったというのはわたしがいかにも幸運だったんだろうけれど、「九州って男尊女卑がすごいんでしょう」と言われると「わたしの場合、東京で見たもののほうがショックがでかかったよ……」と思ってしまう。

そして学内の女子は「他大の女子ほど華やかではないにしても」「大学の女子率が極端に低いので」という留保つきで評価されることが多かった。「結婚したいなら絶対に学生のうちに相手を見つけておいたほうがいい、ひとたび”外”に出るとすさまじくモテなくなるから」という脅しも、男女問わず受けたことがある。いっぽう、一部の男は「彼女が結婚しろってうるさいんだけど、これから就職したらいくらでも若くてかわいい子が寄ってくるかと思うとちょっとその気になれなくて……」などと、自称・優良物件としての語り口がなめらかになりつつあった。クラスメートとして毎日対等に接している一方で、そういう話をするのである。

ある日、知り合いの女子について「あんな頑張り屋で優秀な子はいないね」と男友達に語っていたら、「でも俺はあいつは抱けないけどね」と言われた。そんな言葉でしかマウントできないことも、こんなのが友達だと思っていた自分自身も情けなかった。

頑張ったことや才能は人として素直に評価したいし、されたい。別にモテなくていいし、ましてや「引っかけた女の子から会社に無言電話がかかってくるんだよ」とか「結婚式の二次会の幹事を浮気相手にさせちゃいました」とか言いながらモテ散らかすことなんて目指してはいないが……。

 

あの頃どんより積もっていた憤懣を、わたしは子孫には託せないので、別のところで晴らしている。隔年で開催しているイベント「昆虫大学」だ。

昆虫大学とは、昆虫の研究者やクリエーターに集まってもらい、物販や展示やトークを通じて虫という嫌われがちな生きもの(と、それに関わる人たち)の魅力を教えてもらおう、というイベントだ。わたし自身も虫は好きなだけで詳しくないので、どんなときも最前列で教えてもらうという個人的欲望をかなえるために開催している。

イベントの出展者には(当然だが)女性もいる。前に「個人で発行している冊子に昆虫大学の感想を書きたい」という人がいたのだが、原稿を読んでみたら「会場に入ってみると、そこには美人ママぞろい」と書いてある。「男をもてなすためにそこにいるわけではないし、もてなしてもらえると思って来る人がいたら困るので、こういう表現は絶対にやめてほしい」と言って修正してもらった。

おそらく善意で、きれいな人がいたと褒めようとしたんだろうとは思う。悪意がないからこそ、そういう視線を排除するのは難しい。しかし、やはりたいへん胸糞が悪いし、わたしの目指す理想のキャンパスではない。大学ってのはね、性別から自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……とそこまで考えて、わたしは「大学」のイメージに自分がとっても固執していることに気づいたのだった。最初に取り壊し予定の大学校舎で開催したため「大学の建物で虫について教えてもらうイベント……『昆虫大学』に決めた!」と、軽率に採用したネーミングだったはずなのに。

男女関係なく何かに詳しい人や何かを作れる人が尊敬されて、そうでない人も好きなものについて語ったり好奇心を満たせる場所。在学当時だって、真剣に考えてちゃんと探せばその辺にいくらでもドアが開いていたはずだ。それをただ「思ってたのと何か違う、おかしいな……」と首をひねりながら無為に通りすぎてしまったことを、今も心の奥で後悔している。

大分県だけでなくどこに行ってもそれなりに浮いていることがわかってきてしまった今、後悔ばかりしてもしょうがない。自分の腕がとどく範囲だけでも、自分みたいな人が快適でいられる場所にしたいと思っている。

 
 

 

 

 

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