第十二回 「夜道に転がる」

 

 

 

「夜って、誰もまわりにいないときに道に転がってみたりしますよね」

先日、女たち4人で食べものと酒を持ち寄って我が家に集まり、いつ果てるともない飲み会をしていたときのことだ。なんでそんな話になったのか思い出せないが、だれかがそう言いだした。

しないよ。「夜って、」って何だよ。わたしはとっさにそう思ったが、さらにもう一人が「わかる。マジで解放感がある」と名乗りをあげた。そのまま「野宿は場所選びが大事だよね」と話している。n=2とはいえ、この場の半数が夜道に転がりがちな女。どうなっているんだ。

みんな酔っぱらっていたのもあり、夜道転がりについてさして深く掘り下げることもなく話題は移ろっていったのだが、あれからじわじわと「夜道……なるほどな……」と考えこむことが増えてきた。

たしかに、想像するだけでもスリルと背徳感と解放感がある。夜露で湿ったあぜ道、丸い石のごろごろする河原や真夏の生ぬるいアスファルトを背中で感じたい。夜道に転がったことがないなんて、人生の大事な部分を損しているような気さえしてくる。

そもそも三十余年生きてきて、人に言われてやっと夜道転がりの可能性に気づくというのは、面白みに欠けているのではないだろうか。文章を書いたりイベントをやったりしてちょっとばかりユニーク&ワイルドであろうとしているわりに、自分のつまらなさにうんざりすることばかり。いや、逆だ。つまらなさに自覚があるからこそ、ユニーク&ワイルドに憧れているのだ。

それにしても、女たちでつるむのが最近楽しい。昔の同級生や会社の同期との女子トークは恋愛の進捗報告になりがちでそれはそれで楽しかったけど、結婚や子育てでだいぶ疎遠になってしまった。大人になってから出会った女友達は独身・既婚・離婚・子持ちとステータスも年代も幅広いが、おもな話題はアイドルやアニメや工作や昆虫、そして夜道。この繋がりは大事にしていきたいな……と、しみじみ思った。

 

でも夜道はこわい。犯罪者や幽霊などの恐怖と隣り合わせだ(他人からしたら、夜道に転がっている女も怪異サイドのほうに分類されるとは思うが……)。実際にひと気のない夜道にいるときには、一刻もはやく明るい部屋に急いでしまう。

みんなで転がれば怖くないかも。上述の女たちと、沖縄で遊んだことがある。那覇からレンタカーで北上し、一棟貸しの民家に泊まった。縁側から入る風を感じながら、スーパーで買ってきた食材でごはんを作ってお酒を飲んだ。小学生の子供がいる友達が、ビールを片手に「わたし、ついに子供を家において泊りがけの旅行ができるようになったんだ……!」と噛みしめていたのを覚えている。

そのうち、街灯に虫が来ていないか見に行こう、とだれかが言い出した。ふらふらと外に出て、ガードレール沿いの草むらをチェックしながらしばらく歩いた。残念ながら虫はほとんど見つからず、宿の庭先に咲いた百合の花びらを何匹ものナメクジが食べけずっているだけだったが、すごく贅沢な時間だった。

今思えば、あれが夜道転がり経験値を積む絶好の機会だったのに惜しいことをした。言ってよ! 転がろうって!

 

夜道は、記憶と想像力も刺激する。

昔つきあっていた人と、芝生で転がって話すのがブームだった時期があった。もちろん昼間の話だが、ふたりして芝生に執着し、天気さえよければ公園や緑地におやつを携えて転がりに行っていたのである。

そんな日々のある週末、友人の結婚式に出ることになった。金曜に仕事が終わってから移動して、地方の知らない駅を出たら真っ暗で誰もいない。むこうに光るビジネスホテルの看板をめざして駅前ロータリーの芝生を突っ切ると、踏みしめた芝生からむせるような甘いにおいがのぼって鼻を打った。その瞬間、芝生デートの記憶が脳内に飛び出す絵本のお城のように生々しく立ち上がり、自分史上最高に気持ち悪い思い出し赤面をしてしまった。

翌日は仕事がなく、家からも会社からも離れた場所にいる。解放感を満喫しながらも、芝生のにおいを触媒にして、遠くにいる人をとてつもなく身近に感じている。いまこの瞬間だけは無敵だ、と思った。

そのとき感じた気持ちが、今となってはデートそのものの記憶よりなつかしい。遠くに大事な人がいることの確認もひっくるめて、ひとりで移動する時間が好きだ。

 

先日、清明節の三連休に、雲南省大理の貴州鎮という古い小さな町に行った。去年の清明節に一泊して、あまりに印象が良かったので再訪してしまったのだ。

宿は大理の少数民族である白族の古い家を改築した建物で、窓の外は一面の菜の花畑だ。花期はほとんど終わって、緑の茎におびただしい豆の房がついている。わたしは小さな町で買い食いをしたり、持ってきたパソコンをため息をつきながら開け閉めして過ごしていた。

夜になると冷えてきて、窓を閉めるついでにベランダに出たら、畑から草の香りがぶわっと襲ってきた。それでまた芝生の記憶がゾンビのごとく甦ったわけだが、今回は思い出す人がいなくてちょっとさびしいと思う。

上海で暮らすようになってから、慢性的なホームシックにかかっている。ほぼ毎日、さびしさについて考えるようになった。どこにでも行けてどこでも眠れるような人になりたいと思って中国に来てみたけれど、ぜんぜんタフになれないなあ。

でも女たちと話していると、独身でも結婚しても子供がいても、それぞれのさびしさや息がつまるときがあるとわかる。そのはざまにときどき、満たされた瞬間の飛び石があるからなんとかやっていける。夜道に転がるのも、そのひとつだ。飛び石の置き方や見つけ方を教えあう友達がいてよかった。

 

空港に向かうタクシーの中で「あ、夜中に菜の花畑で転がるチャンスだったのに」と気づいた。もしかしたら、一生このまま転がりそびれるのかもしれない。

これからは真夜中の草のにおいを、前に好きだった人だけじゃなくて夜道に転がるのが好きな女友達にも心の中で結びつけておこう。今夜もどこかで、こっそり夜道に寝転んでみているかもしれない。野生の動物みたいに人の気配に神経を研ぎ澄ませつつも、星空を見上げて夜気を急いで吸いこんでいる。そんな様子を想像するだけで、気持ちがほぐれていくようだった。

 

 

 

 

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