Case8 月に磨く 前編

 

 

 

あの日から、数日が経った。透和くんからの連絡は、あれ以降一切無い。依存症患者から依存物を取り上げたかのように、最初の一日二日は何度も彼を求めた。夢にまで現れた時には、起きた後少し笑ってしまったけど、その後に輪郭のぼやけた悲しみと虚しさが胸の中に溢れ返った。彼と出会ってから、時間はそんなに経ってない。それなのにも関わらず、ここまでの存在になっていたと改めて気づかされる。でも、きっとこれは恋愛感情ではない。縋れる存在…言わば、依存に近い状態だったのだ。私が一方的に彼を、透和くんを崇めていただけ。

 

「そういえば、前にも同じようなことを言われたっけ…」

 

ベランダで冬の夕暮れを眺めながら、いつしかの夜を思い出す。場所は、確か西麻布の暖炉の火が印象的なバー。ゆらゆらと揺れる暖かな明かりに映える、紘和さんの横顔を今でも忘れられない。この世の人間すべてに対し、興味をまるで抱いていない。そんな表情だった。その日も紘和さんの会食終了後に落ち合うというお決まりのパターン。私たちの逢瀬は、基本的に皆が寝静まってから始まる。目を閉じて、記憶の引き出しからあの夜を取り出した。

 

「…会いたい」

 

 

 

渋谷駅からタクシーに乗り込む。時刻は23時過ぎ。約束の時間まで残り10分で、渋谷から西麻布へは大体10から15分ぐらいの時間を要す。つまりは、ギリギリどころの騒ぎでは無かった。乗り込み、運転手さんに行き先を告げて、直ぐにコンパクトミラーを片手に簡易的な化粧直しに取り掛かった。とは言っても、家を出る直前に身支度をしたからこんな短時間で化粧は崩れない。それでも、彼と会う時は念には念を入れたかった。平日深夜の六本木通りは比較的空いているので、タクシーは順調に私を西麻布へと運んでくれている。化粧直しを終え、香水を手首にプッシュしようとした時、LINE通知が来た。彼だ。

 

<ごめん。ちょっと遅れる。>

 

これまたいつものお決まりのフレーズだった。彼は自ら伝えた時間を守れた試しが無い。別に怒りが湧くでも無く、この心臓の高鳴りを感じられる時間が引き伸ばされると思うと、逆に嬉しかった。好きな人と会うまでの時間はとてつもなく長く、会っている時間はとてつもなく短く感じる。恋をしている人なら誰もが一度は抱えるジレンマを、私は心の底から愛おしんでいた。シンデレラを王子様の元へと届けるカボチャの馬車の如く、タクシーはスムーズに指定した住所に向かっていく。窓から見える西麻布の街並み、洒落込んだ自分、真夜中の逢瀬、そして、紘和さん。どの要素も私の心をこれでもかと昂らせるには十分過ぎた。

 

指定された場所は、何回か彼に連れて行ってもらっているバーだった。白塗りの建物は、一見バーだとは分からない。階段を昇り、重いドアを開ける。店員さんに紘和さんの苗字を告げると、右奥のソファ席へと通された。平日の23時半なんてこの街には関係なく、お店には何組かお客さんが座っている。通されたソファ席は、他のお客さんからは死角になっていて、これもまたお決まりの席だった。店内には暖炉があり、火の揺らめきが私の心情とシンクロしているように思えた。

 

彼からのLINE通知は未だ来ない。今日下したばかりのパンプスを履いているせいか、若干足が痛い。でも、彼に少しでも魅力的だと思われるならどうでもいい痛みだ。少し後悔しているのが、ネイルを替えに行けなかったことぐらいだけど、それはもう気にすることをやめた。彼はあまりネイルには興味を示さないから、あまり問題は無い。一通りの最終チェックを終え、LINEを確認しようとiPhoneを手に取ったところで上から声が降ってきた。