第十八回 「クリアファイル:720円」


 

 

あなたは人生を賭して推せる対象をお持ちだろうか。私はお持ちである。それはたった一人、この御方……と高らかに宣言できたらカッコいいが、今ちょっと整理しただけでも各界で歴代100件くらい「推せる」固有名詞が思い浮かんでしまった。我ながら気が多い。一途には程遠い。

何か特定のジャンルに熱中するときは、ほとんど必ず誰かに惚れ込むところから始まる。千代の富士がきっかけで相撲を観始めて、羽生善治に驚いて将棋のルールを覚え、マルコ・パンターニ観たさに自転車競技について調べまくった。鹿賀丈史に熱中して古今東西のミュージカルを勉強したのは中学生のとき、しばらく距離を置いていたのが出戻った理由もやはり特定の個人・石川禅である。相撲なら横綱級、将棋ならA級、大劇場公演に出ずっぱりの、日本を代表するミュージカル俳優の一人だ。

ところが、齢50代の舞台俳優を追いかけているとなんとも「課金」が難しい。後援会の年会費は4000円、接触イベントは滅多になく、淡々と芝居のチケットを買い足すだけ。握手券付きの写真集やランダム特典封入のCDを売りつけられることもなければ、嵩のあるグッズ類もめったに販売されない。されても、銘入りのおまんじゅう(白餡)とかなので、食べると消える。

たまにオタクとして取材を受ける際、「お部屋に推し様を祀った祭壇はありますか?」「グッズを並べた写真を撮って自慢してください!」などと無茶苦茶なリクエストを受けるのだが、タペストリーとか抱き枕とか缶バッジとかアクリルスタンドとか多種多様なグッズを備蓄しているあちこちの王国の雌猫たちと違い、私の「推し事」、びっくりするほど写真映えしないのだ。

ヅカヲタやジャニオタ、ドルオタにバンギャにディズニーオタク、販売されるグッズのバラエティが豊富で的確に物欲を刺激してくるような沼に生息し、次々と新発売される高額商品に金を溶かしながら推しへの愛を表現している廃課金勢に話すと、死んだ魚のような目をして「平和でいいじゃない……」と言われるのだが、こちらはこちらで一抹の寂しさもある。

そんな沼にも、課金アイテムが、なくはない。後援会事務局謹製グッズの多くは頒布も限定的だが、一種類だけ、公演会場の劇場売店へ並ぶアイテムがある。それが、推しの顔写真が刷られたクリアファイルだ。私がファンになる以前から売っていて、萩尾望都のカラーイラストとマルベル堂のプロマイドを足して二で割ったような独特の階調、とにかくインパクトが強く、他の俳優の追っかけに推しの名を告げると「禅さん……いつも物販でセピア色のクリアファイル売ってる、あの禅さんですか……?」と返されたりする。

 

 

公演プログラムやDVD、共演者の写真集などに埋もれるようにして、このクリアファイルは一枚720円で売られている。在庫は二、三枚のことが多い。同じ公演を何度観に行っても、ずっと二、三枚が面陳されている。まぁ、普通に芝居を観に来た一般の 客が買って帰るアイテムとも思えないので、見かけるたびに全宇宙100億人の石川禅ファンを代表して私が回収することになる。

最初に買ったのは2011年6月、『レ・ミゼラブル』上演中の帝国劇場だった。数週間の逡巡を経てファンクラブ入会申込書を手にした私は、勢いをつけるためにこのクリアファイルを買ったのだ。その日の舞台も素晴らしい出来だった。もはやこの男を我が推しとして迎え入れることに何の躊躇もない。そう証明するために、エイヤッと買ったのだ。何事も勢いが大事である。

あれから8年弱。2019年冬、シアタークリエへ『レベッカ』を観に行った際も、ほとばしる推しへの想いをいかんともしがたくなった私は、このクリアファイルを買った。また買った。何枚目だ? 何年前の写真だ? 知るか! しかも売店で「こちら最後の一点で現物お渡しとなりますが、よろしいですか?」と確認され、勢い込むあまり「よろしい!!」と返してしまった。とにかく勢いが大事である。

言うまでもないが、クリアファイルというのは薄いプラスチックのシートを折り曲げて下辺を接着してあるだけの代物で、それ自体に720円の価値はない。私はそんなことに何度も何度もお金を払っているわけではない。これは最も穏便に「その日の」芝居が素晴らしかったことを伝えるための追加チケット。重すぎる愛の免罪符なのである。

事務所宛てに手紙を書き送ったり、イベント前後に話しかけたり、本人に直接感想を届ける方法もあるにはあるが、推しとの距離が近すぎると、私は私の暴走を止められない。ファンミーティングの前後は警視庁「ストーカー規制法」のページを読み返すことを己に課している。行動や服装についてネチネチ言及しては「いつも観ています」と告げ、贈り物の受け取りを要求し、帰り道みち劇場付近の往来をうろついて「あああああ最高かよバカヤロー!」と絶叫する私、よくよく読むと法に抵触しまくり、訴えられたら即お縄である。

1年以下の懲役又は100万円以下の罰金を支払う代わりに、720円でクリアファイルを買う。何度でも買う。金を払うと心が落ち着く。重すぎる愛の免罪符である(二度言った)。チケット以上の価値ある満足を得られたと伝えるには、何も言わずに紫のバラを贈り、黙って静かにクリアファイルを購入するのが一番だ。私の推しへの愛は、泣いても笑っても一口720円。なんたる明朗会計だろう。でも、そろそろ新しいファングッズ作って売ってくれてもいいのよ。

 

 

 

 

 

ナポレオンのメルマガに登録しよう!