第二十回 「足つぼマッサージ:5000円(60分)」

 

 

 

「あれ、君、こういうとこ初めて?」と訊かれて無言で頷き、恵比寿駅前の雑居ビルにある整体院へ足を踏み入れたのは、大学生のときだった。無茶苦茶に仕事が長引いた深夜、アルバイト先の雇い主に誘われたのだ。今日は日当制の現場だから残業代は出せないんだけどさ、俺が今どうしても行きたいから、ついでに岡田ちゃんもどうよ、と奢ってくれたのだった。

 

玄関口で前払い、二人分を一万円札二枚で払っていて、顔色を変えぬよう努めながら「高!!」と動揺したものである。経費精算がどうなっているのか知らないが、これなら私に残業代を出したほうが安くつくのでは。というか、その一万円札をそのまま支給してくれたっていいのよ。と、心の声が漏れそうになるのを抑える。いわゆる中国整体の店だった。蛍光灯がやたらと明るく、簡素なベッドが並べられて間仕切りがない。深夜営業中なのにほとんど満床だった。人けのない夜道を歩いて辿り着いたのでギャップに面食らう。

 

壮年の男性が私の担当につき、一方的に全身もみほぐされること一時間弱。ぼんやりした頭で軽くなった体を運び、沓脱ぎで雇い主と合流した。ものすごく親密度が増したような、ものすごく気まずいような、不思議な居心地の悪さ。指一本触れ合っていないのに、それぞれ職場では見たことのないトロトロの顔を見合わせて、これは、何か一線を越えてしまった気がする。

 

奢ってくださってありがとうございます、と言うつもりで「ご、ごちそうさまです……?」と頭を下げると、「や、お、俺は何もしてないけどね……?」とボスも慌てて目を逸らした。「どうだった、初めては?」「あ、痛かったけど気持ちよかったです!」「……」と続く会話でさらに気まずくなったが、私は大いに満たされていた。オラついた体育会系男子たちは先輩後輩で一緒に性風俗店へ行くことによりホモソーシャルな結束を固めるという。こんな感じなんだろうか。

 

そんなおぼこい初体験を境に、整体院やリラクゼーションサロン、指圧に鍼灸マッサージにカイロプラクティックなど、私はあらゆるボディケア専門店を試すようになった。「高!!」と感じたのは最初のうちだけ。肩こり、首こり、全身のむくみに眼精疲労、どうしようもないと思っていた身体的不調が、人に揉みほぐしてもらうことで見事に吹っ飛ぶのだから、安いものだ。とはいえ効果はどれも一時的なので、麻薬のようにクセになる。

 

就職後は、さらに歯止めが効かなくなった。当時住んでいた商店街は高齢化が進み、美容院よりも各種マッサージ屋が多いような土地柄だ。だいたいどこも60分5000円が相場で、通い詰めるとポイントカード割引がきく店を贔屓にしていた。

 

あるとき新規開店した台湾式足つぼマッサージへ入ると、さっぱりした美形の青年が担当についた。爽やかさと清潔感と人懐っこさを前面に押し出した、レモンスカッシュのような若者だ。私よりも数歳下のはずだが、一方で新卒数年目の私よりも地に足ついたプロフェッショナルな風格がある。

 

聞けば、つい先日まで自衛隊にいたのだという。キツい訓練に耐えて真人間になろうと思った、勉強は苦手だから手に職つけたかった、首都圏近郊に何軒かチェーン展開しているこの店のオーナーと偶然知り合い、二週間ほど研修してこの店に入ってまだ数日目である、と自己紹介が続く。

 

「え、じゃあ君、こういうとこ初めて!?」と、今度は私が訊き返す番だった。何度も訊き返した。だって、めちゃくちゃテクニシャンなのである。別の店で、足つぼ一筋数十年というような老練な施術師にもかかったことがあるが、この若者のほうがずっと上手い。指爪が当たることもなければ、クリームも適量で滑りすぎない、圧の加減も素晴らしいし、同じところを刺激し続けて痛くなってくる直前で、すっと別の部位へ移っては制限時間をフル活用する。只者ではない。

 

「自衛隊って私語厳禁なんスよ、こうやってお客さんとおしゃべりしながら仕事するの、めっちゃ楽しいッスね! 俺、接客業向いてるんだなぁー」と屈託のない笑顔。「いや、接客というか、足つぼに向いてますよ。今週入店したとは思えない……」「マジですかー、チョー嬉しーい、頑張りマッス! あ、ここ肝臓ですよ〜」と、喋っている間もグイグイ捺しまくられる、まったく手がおろそかにならないし、力加減がちょうどいい。

 

人が天職に就く瞬間を、初めて見てしまった。自衛隊に入隊したのは何かの間違いとしか思えない、足つぼをほぐすために生まれてきたような青年である。オーナーは偉いな、こんな才能をいったいどうやって見出したのだろう。軽い気持ちで肩など揉ませてみて雷に打たれたような衝撃を受け、「こんな逸材を駐屯地に埋もれさせておくわけにはいかない」と思ってスカウトしたのだろうか。わかる、わかるよオーナー。

 

それから半年ほどだろうか、私はほとんど浮気せずにその足つぼマッサージ屋に通い続けた。もちろん毎回この彼を指名である。ほとんど毎日シフトに入っているせいか、会うたびに腕を上げていった。ところがやがて忙しい時間帯には見かけなくなり、私は直接スケジュールを聞き出して、平日夕方とか、土曜の朝一番とか、半端な時間帯に訪ねて行くようになった。

 

それでも予約が取りづらくなり、数週間ぶりにようやく会ったとき、彼は私の足をフットバスに浸けながら、笑顔でこう述べた。「なんか、オーナーが新しく浅草橋に支店を作るっていうんで、おまえそっち行けってなって、来週からそっちです!」

 

恵まれた天賦の才能をまるで自覚していない彼は、鉄砲玉のような感覚で東京の反対側にある店へ移っていくと告げるのだが、いや、私にはわかる、わかるよオーナー。不安の尽きない新規開店、前線の陣頭指揮をこの年若い彼に任せるつもりなんだね。この実力と人柄の好さならば、すぐに店長へ昇格してもおかしくないし、いずれはオーナー、首都圏チェーンを丸ごと彼に譲るつもりなのではないか、と想像が先走る。彼の姿を見たのはそれが最後だった。

 

あれから十年近く経過した。今住んでいるニューヨークのダウンタウンにも、台湾式足つぼマッサージの店は多数ひしめいている。何度か足を運んだこともある。病院へ行かずに万病を治そうとしている東洋系の老人たちのほか、スーツ姿の白人ビジネスマンなども見かけた。相場は60分で40ドル、チップ別。だいたい同じくらいの価格帯だろうか。

 

先払いをして、椅子に横たわり、揉まれて、店を出る。ほとんど毎回必ず「高!!」と思う。物を知らない大学生のとき感じた「高!!」からは、ずいぶん遠くへ来てしまった。同じ「高!!」でも、まったく意味が違う。私は十年前、最高の足つぼマッサージ師を知ってしまった。彼と過ごした至福のひとときは、そんじょそこらの施術師では上書きすることができない。