case♡6.ミニマリストになれば毎日好きって言える?


 

あー、好きな物だけに囲まれて生きていきたい。右を向けば好きな物、左を見ても好きな物。好きな物、好きな物、好きな物、身の回りにあるものぜーん好きな物!だったら人生めちゃくちゃ楽しい。そんな事を想像しながら、そんなもん大富豪でもない限り無理だっつーの。とあっさり楽しい妄想を諦める。しかし、その時ふと思ったのだ。

 

「逆じゃね?むしろ物を減らせば、この理想叶うんじゃね?」

 

それはまさに晴天の霹靂だった。

■とっくの昔に爆裂流行っていた『断捨離』と『ミニマリスト』

そう、考えは至ってシンプルだった。『好きな物以外持たなければいい』のだ。という事で、手始めに長らく来てないけどいつか着るだろう枠に追いやられていた服を捨てた。あ、この『捨てた』と言う言い方、実に良くない。ちょっと話はそれてしまうが、要らないから『捨てた』と言うと何故だか物に何も感じない非情な冷酷人間のイメージが沸く。事実、捨てた事には変わりはないけど、好きな物だけを手元に残す作業だ。言葉のイメージに惑わされてはいけない。

 

さて、話は戻って今や世界にその名が轟いたこんまりこと近藤麻理恵さん。ときめく片づけの第一人者だ。第一人者という表現が正しいのか、それ以前に『物を減らせ』『最小限で生きて行こう』と謳っている人は多く居た。わたしも、理屈ではそれが『良い』と目や耳にする度思っていたはずだが、今、この瞬間まで実際に行動に移してなかったのは、もしかしたら『好き』よりも『集める』という『慢』の気持ちが強かったのかもしれない。心の内側が満たされている事よりも、外側に見えて増えていく感覚の方を信じていたのだろうと思う。

 

■物が減った中に生まれた『好き』

断捨離で物が減った家は随分シンプルになった。断捨離、という言葉もまた流行り過ぎて『要らない物』『不要な物』という、役立たず感が際立ってしまっている様な気がする。確かに『不要な物』である事には言葉上間違いはない。だけれども決して『役立たずな存在』という訳ではない。言葉は、いつでも受け取る人間の情を絡めて厄介になる。便利だけど不便な物だと改めて思う。

 

さて、服が減り、使っていない家電が減り、カッコつけで買った本が減り、最後はテレビまでその姿を消した。このテレビに関しては最初思立った時は絶対に手放せない。と思った。それほど合って当たり前の存在だった。有って当たり前を『好きかどうか』なんて疑った事が無かったのだ。もはやこれは腐れ縁の男との別れを決意するそれと同等と言えると思った。というか絶対言えると思う。そして、テレビに注ぎ込んでいた惰性の時間は無くなり、それと同時に「ああ、今日もテレビだけ見て一日の大半を終えてしまったあ」と自己嫌悪する自分も居なくなった。

 

■結局言い方、考え方問題。

わたしの部屋は今も現在進行形で質素になっている。買い物も上手になって来た。要る要らないの基準が、好き好きじゃないで賄われている。最初はその判断を疑っていた。だって、好きだけで買い物していたらそれこそ、大富豪でない限りすぐ破産よね、奥さん!と、思っていた。しかし、それは正しい『好き』を知らない場合の話だ。『好き』は『要る』であり、『有った方がいい欲しい』は『要らない』とわかるようになった。好きを集める事は無駄の散財どころか、むしろ節約になった。

 

『好きを集める』は『増える』というイメージがあった。でも『減らす』事でより好きがはっきり鮮明になった。こんなこと、もはやとっくのとうに沢山の人がお勧めしているのだろうと思われるが、実感は当人が自分で感じたその時にやってくる。今更や、時代遅れなど個人の世界には存在しないのだとわたしは思う。

 

例えば『好きなことしかしない』という言葉をよく聞く。最初これを聞いた時、そんな勝手通用するもんか、と思っていた。でも今は違うとわかる。『好きを大事にする事』と『そうじゃない事は全部避ける』事はイコールじゃない。好きな事だけに囲まれていても、好きと思えない事柄や物や人はやってくる。それでも、自分に『好き』がある事には変わらない。

 

声に出している向こう側には見えない景色が必ずある。『好き』を生きる事はつまり、人生をまるまる生きているのと同じ事なのだ。全部セットになってついて来る。だから堂々と『好きだけ』を集めて欲しいと思うのだ。