第二十回「わかられてたまるか」

 

 

 

 

一般的に恋愛というのは幸せになろうとしてするものだ、と思われているが、喜怒哀楽を円グラフにすると90%は泣いていて9%は怒っており、残りの1%だけがキラキラと植木鉢の土のなかのバーミキュライトみたいに輝いている、という症例も世の中にはたくさんある。

ある女友達は、相手を換えながら似たような不幸をたずね歩いているみたいに見えた。いつも選ぶのは「よりによってそいつか」というモラハラ野郎だ。大塚駅前の路上で声をかけてきたキャッチの男と付き合っていたときは「夜中の2時でも3時でも、呼び出されたら出動できる態勢を整えてる」と外科医か消防士のようなことを言っていたし、彼女が弁護士事務所に就職してから付き合った男は「たとえボス弁といえども、男の運転する車に乗ってはいけない」などのモラハラ17か条を制定し、彼女に暗記させた。

彼女の近況報告を聞くたびにわたしは口をきわめて相手の男をののしり、「なんでそんなに下に置かれたがるのかわからない」と説教し、毎回別れることをすすめたが、彼女が聞く耳を持っていたことはない。彼女はたしかに、恋愛に身を投じることで外科医か消防士ばりに充実しているようだった。

 

何年か会っていない彼女を思い出したのは、映画『愛がなんだ』を観たからだ。なかなかに自分勝手なクズ男であるマモちゃんの呼び出しにいつも応えられるように、定職につかないくらい入れあげる主人公・山田テルコ。マモちゃんはテルコの献身を雑に扱いながら、絶対自分には振り向かないタイプの年上の女・すみれのまわりを子犬みたいな目でウロウロしている。テルコの唯一の友達である葉子や、葉子にこれまた都合のいい男扱いされているナカハラも入り乱れて話は進むが、対等で思いやりに満ちた心あたたまる恋愛関係はひとつも出てこない。

旅先の大阪・梅田の映画館で観たのだが、上映後に明るくなった映画館から出ていくときに、うしろに座っていた女の子が友達に「刺さりすぎて死にそう……」とささやいた。トイレでは3人づれの女子たちが「わかるとかわからんとかのレベルやなくてさ……『ハァ?!』って感じやった!」とプンプンしながら手を洗っていて、他人のそういう反応も含め「恋愛映画を観たなあ」という感慨につつまれた。

 

この連載もそうだが、恋愛をテーマにすると「わかる/わからない」という軸の感想がとても多くなる。要するに共感できるかできないか、だ。共通のルールがあるようで何もない、圧倒的な主観のなかで起きているのに他者とのコミュニケーションがないと成立しない、濃い霧立ちこめる恋愛ワールドについて語るとき、人は共感のポイントをまず探らないと、不安で話をはじめられない。

一方で、書く側としては「共感を超えたところで心を動かせたらなあ」と思ったりもする。「全然わからないのになんかすごかった」といつか他人に思わせられたら、たぶん「わかる」と言われるよりずっとうれしい。

『愛がなんだ』は、わたしにとってはまさにそんな感じだった。あらすじだけ見ても面白さはほぼ伝わらないが、エピソードと演技と映像の積み上げがさみしい人たちの重みをリアルに出力していく。登場人物の誰にも強く感情移入できないまま、霧の向こうにゾウだかネッシーだかの巨大な生物の気配を感じ、うまくいかなかった恋愛のあらゆる記憶があさりの水管のように這い出してくる。

 

原作は角田光代の小説なのだが、映画を観たあとで気になって読んでみたら、鳥肌が立つくらいこわかった。映画はいろんなエピソードをうまく再構成して、各登場人物に気持ちのフックが設けてあるし、トーンが暗くなりすぎないように上手に味つけしてある。小説版は、読めば読むほどテルコのからっぽな心の中にどんどん下りていくようだ。からっぽな人間が世界の中で自分の輪郭を確認しようとしたら、他者に同一化するか拒絶されるかしかない。

わたしはどちらかというと、今までは恋愛映画や恋愛小説よりもホラーやサイコスリラー、人があっさりバカスカ死んでいくような作品を喜んで鑑賞してきたほうだ。黒沢清の映画やダン・ギルロイ監督の『ナイトクローラー』が好きだ。しかし、最近はままならない恋愛の話を漁っては、こわい話と同じ部分の味蕾が反応するのを楽しんでいる。

そういうどこかうしろ暗い楽しみをもたらしてくれた恋愛小説として、『愛がなんだ』と佐藤哲也の『シンドローム』、そして柴崎友香『寝ても覚めても』を並べて「迷妄三部作」と呼びたい。

佐藤哲也『シンドローム』は、ジャンルとしては元々がジュブナイルホラーである。中学生男子の主人公が住む街に謎の隕石のようなものが落ちてくる『遊星からの物体X』的な事態。しかし、作品全体を包む不穏さはクラスメートである久保田葉子への「迷妄」によるもので、それは物体Xとは独立した事象でありながら、共鳴するように昂進していく。目の前で起こることへの無力さ、同じく久保田葉子への迷妄にとらわれているように見える同級生男子への感情、それらを描き出す地の文は視覚的にも工夫されていて、読めば読むほど泣きたくなる不穏さだ。

柴崎友香『寝ても覚めても』も、地の文がこわい。いきなり現れていきなり消えた恋人と、その恋人にそっくりな顔をもつ男の間で揺れる女の話だが、観察の鮮やかさとあえて読みやすいリズムを崩した文体が他人に入りこんだような錯覚をもたらす。その上で、ぐにゃりと世界がゆがむような展開が用意されているからほんとうにこわい。

 

何度でも同じところで道を間違えて「なんでそっちの道を選ぶの?!」と何度でもまわりに怒られて、「いや、わたしとしては道なりに来ただけなんです。ほかの道は見えてたような気もしますが、わたしにとっては実質的に一本道でした、選べなかったので」という顔をする人がいる。そういう友達になんであんなに冷静でいられなかったんだろう、と今は思う。正しさを背負った自分の攻撃性に心からうんざりしているし、その選べなさにどこかで納得している。

むしろこちらの感情がバグって「人は幸せになるために恋愛をするんだっけ……? どうだったっけ……ちょっとど忘れしたわ……」と混乱しはじめる。そもそも、合理的に幸せになりたい人間が恋愛をするだろうか。恋愛をしている人間のなかで、恒常的に幸せを感じられている人間って何パーセントくらいなんだろう。

正しさや共感の向こうに行きたい気持ちが、迷妄の物語を求めている。違うだれかの心の中をのぞくために手に取ったはずなのに、穴の中の長いはしごを下りていくと、いつのまにか自分の心につながっている。はしごを下りた先に白っぽい水がたまっていて、ゆっくり泳ぐ巨大な生きものの影。それを見つめながら「なるほど、わかられてたまるか」とつぶやくのだ。