第二十一回「恋愛の残りもの」

 

 

 

 

昔つきあっていた人は「さとみ箱」を持っていた。

はじめて彼の家に遊びに行ったとき、部屋に靴箱みたいな箱がおいてあるのを見つけた。ふたにマジックで「さとみ」と書いてある。好奇心に負けて「これなーに?」と尋ねると、彼はしまったという顔をしながら箱を開けてくれた。

中には、元彼女であるさとみと行った映画や遊園地の半券、手紙入りの封筒などがごそっと入っていた。わたしの不可解な顔を見て、彼は「処分するよ」と言ったが、わたしは「いや、とっておいたらいいんじゃないかな……」と言った。これを自分が捨てさせたことになるのは厳しい。

今もさとみが好きだから箱を持っているのではないことは、態度を見ればわかる。嫉妬しようがない。たしか別れを切り出したのも、彼のほうだったはずだ。ただ、どういう気持ちで箱を作って保持しているのかよくわからない。できればメレ子箱を作るのはやめてほしいな、さとみ箱は好きにしていいから……と思ったが言えなかった。

彼と別れてから数年たってからmixiで「元気? 僕はいま留学してて、大変だけど充実しています」というメッセージが来たが、返事をしなかった。元彼女との思い出を大事に取っとくくらいなら、別れるときに変態メールでわたしをドン引きさせたことも記憶の片隅に置いといてほしい。

 

しかし、よく考えてみれば「取っておく」ことと「忘れられない/大事にしている」ことはぜんぜん違う。

部屋が汚すぎて床が見えない人の家に行ったことがある。わたしは「大事なものがゴミに埋もれて、飾ることも探すこともできないのは持ってないのと何が違うの? 大事なものだけにしようよ」と言った。すると家主は「要らないといえばぜんぶ要らない、なにが要らないかと考えていくと人生そのものに価値がないのであって……」と言いだし、わたしは「極端から極端に行って価値判断を避けるなッ!」とかんしゃくをおこした。そのあと片づけを手伝ったが、必要なものまでゴミ袋に入れてしまい、今度はわたしがブチ切れられたのだった。

わたしは基本的にはものを捨てやすいほうだが、すべて覚えておきたいという欲求は強い。覚えきれないものを、写真や文章に残す。残すことで安心して忘れられる。

自分が残していたものでドン引きされたこともある。フィルムカメラで写真を撮っていたころのアルバムを恋人に見られ、元恋人と撮った写真に「ごめん、こういうの平気なほうだと思ってたけど、意外と心に来る……!」と爆笑された。別に大事に取っておいたわけじゃなくて、単に元恋人の写真を選んでアルバムのスリーブから出して捨てて、また順番に詰めなおす労力が割けなかったのだ。箱に分けてあるならすぐ捨てられるけど、友達や旅先の写真も入ってるんだもの……しかし、見せてしまったのはやはりがさつとしか言いようがない。

 

恋愛の記憶やそれにまつわるものの処遇は個人の勝手だが、問題は終わる人たちの間にものが残ってしまった場合だ。

どう見てもこれ、相手は別れたがっているなという状況をじょじょに受け入れて数か月。わたしは上海、向こうは東京にいるため連絡を取り合うこともほぼ絶え、このまま自然消滅していくかと思われたが、東京にある部屋の合鍵を渡したままなのが引っかかっていた。

悪用されるとは思っていないし、連絡せずに鍵を換えてもいいのかもしれない。しかし、簡単には複製できない特注品だし、父母や姉に渡した合鍵を刷新する理由も説明しにくい。何より、向こうが自然に消滅したがっているとしても、こちらはすっきり終わらせたい。そして「わたしたち、別れましょう」と言いだして「何を今更??」と思われるよりは、「合鍵を返してください」という用件に言外のメッセージを込めるほうがまだ気が楽だ。

一時帰国のタイミングで会って、鍵をもらってすこし話して終わりにするはずだったが、彼に急用が入って約束が流れた。彼は謝ったが、ここまでのやりとりで気疲れがピークに達していたので鍵は郵送してもらうことにした。単に会うのが怖かったのもある。好きだったものが好きじゃなくなっただけで、我々はお互いに滑稽なほどおびえている。

鍵は封書で送られてくるはずが、届いたのは小包だった。開けてみると、鍵といっしょに漫画の全巻セットが入っている。なんでこの漫画が入ってるんだろう。たしか前に、食事しながら「ちょっと読みにくいけど、本当におもしろいよ!」と話した記憶がある。そして彼は「じゃあ読んでみる」と、その場でAmazonの「1-Clickで今すぐ買う」ボタンを押していたじゃないか。

彼が薦められたものを「今度買ってみる」で流さず、その場で買うところが好きだった。付き合っている間には何度かそういうことがあって、「人たらしのテクニックだなあ」と思いつつもまんまと嬉しかったから、よく覚えている。しかし、彼はそのことをすっかり忘れ、どうやらわたしに押し貸しされた本を返したつもりらしい。冗談じゃない。頼まれたのでもない限り、わたしは他人に本を貸したりしない。会ってすらいないのに、ダメージ与える能力が高すぎないか。

意識してできる意地悪ではない。彼のわたしへの関心のなさは、弓を弓と認識できない名人芸の域に達しているのであった。不射の射で人を攻撃するのはやめろ、心が死ぬ。この漫画はしばらく読めないだろうと思いながら、段ボールごと部屋の奥に突っこんだ。そのうちブックオフに売りに行ってやる。

「1-Clickでおまえを忘れる」ボタンがあったら、あのときなら発作的に押していた。いや、彼に先にそのボタンを押されてしまったんだろう。わたしだって何度も押してきた。でも、やっぱり先に押されると痛い。押すほうも押されるほうも痛い。年だけ取っても人と対話する能力が身につかないと、黒い箱ばかり増えていく。

 

その次に帰国したとき、彼からあらためて埋め合わせの連絡があり、最後にランチをいっしょに食べた。おたがいに食事中、穏やかに話し料理をほめ称えることを心がけ、核心にふれる話はほとんどしなかった。店を出て駅に向かう道で「ほんとごめんね」「めっちゃむかついたよ」と会話しただけだ。

「このまえはじまった連載、自分のことを書くようで書かないバランスが絶妙だよね」と彼はこの連載のことを口にして「おれはいつか出てくるんだろうか」と言った。わたしは反射的に「書かないよ」と言い返したが、いまこうして書いている。時間が経って、みっともなさすぎる記憶が「書けない黒い箱」から「書けそうな黒い箱」のほうに移ってきたからである。

彼がこれを読んだら「けっきょく書くんかい」とむかつくだろうか。でも、おそらくすでに読んでいないという気がする。なにしろ彼はもうずっと前から、無関心でわたしを傷つける達人なのだ。