第二十二回「シンガポール植物園:0シンガポールドル」

 

 

先日、初めてシンガポールへ行ってきた。暑かった。小学生の夏休み日記みたいな感想だが、梅雨の東京を経由して初夏のニューヨークへ戻ってきて、今年はもう二度とあれほどの蒸し暑さを体験することはなかろうなと確信するほどの、強烈な気候だった。

暑いが悪いということもない。屋内はどこもキンキンに冷房が効いており、厚手の羽織り物が手放せないくらい寒いのだ。地下鉄の駅から出て市場や川辺をまったり歩くとき、ホーカーズ・フードコートで出来立ての麺を啜っているとき、自然の熱気に包まれるとホッとする。直射日光さえうまく遮れるなら、ずっと蒸し風呂の中で暮らしているかのような熱帯の朦朧は心地よかった。

滞在日程のほとんどを曇天の下で過ごし、スコールに見舞われると慌てて軒先へ逃げ込む。シンガポール植物園へ行った日も降ったり止んだりで、折りたたみ傘を開いたり閉じたり、じっとり汗をかきながら「緑したたる」という形容がぴったりの園内散策を何時間もかけて楽しんだ。ここはこの国で初めての世界遺産に登録された観光名所、その歴史は建国よりずっと以前、19世紀にトマス・スタンフォード・ラッフルズらが興した植物園から始まっているという。

ゲートで財布を取り出してから、国立洋ラン園を除いた大半のエリアが入場無料であることを知った。アミューズメントパークのような場所だと思っていたら、どちらかというと「公園」に近い位置付けなのだ。それにしては園内設備にお金がかかっている。しっとり濡れた熱帯雨林を歩きながら、人工の滝や湖を眺めながら、鳥と戯れながらレストランを見遣りながら、「そうか、この国は、この贅沢体験を、タダで提供するのだなぁ」と感じ入った。

シンガポール出身のディック・リーは故郷について「Love-made Utopia for me and you」(Big Island)と歌ったけれど、傍目にはここは、「愛」というより「お金」を主成分に実現した理想郷である。建国理念にもとづいて政府が「幸福」のかたちを定義し、「お金」によって国民生活に積極介入してくる肌感覚がある。善とされるものは安くつき、悪とされるものは高くつく。

世界中から優良企業を誘致するための税制優遇措置を敷き、所得税も下げて富裕層を釣る一方で、ゴミのポイ捨て、深夜の屋外飲酒や路上泥酔、指定場所以外での喫煙、公衆便所で用足し後に水を流さなかった場合まで、厳しく罰金刑や禁錮刑が課されている。多種多様な民族と文化が共生する国家で秩序を保つため、という建前のもと、塵一つ落ちていない美しい計画都市の道端に、監視カメラがずらりと並ぶ。

ストリートフードが安くてジャンクに美味いのも、もとは働き盛りの女性を炊事から解放して社会進出を促すための国策だったそうだ。ミシュランお墨付きの評判店を訪ねて行くと、広大な公営団地の一角にあったりする。団地住民の人種構成比は、国全体のそれに近くなるよう調整されている。どこに住み、何を食べ、どんなふうに暮らすか、すべて管理されているというわけだ。

屋台の鶏飯は一人前3.5ドルなのに、隣の店で買う瓶ビールは7ドル、生ビールは12ドル。割高だと席を立って買い足しに行くのも億劫で、自然と酒量が減る。酒やタバコなんて嗜まなくても死なないどころか、健康を害するおそれまであるものだ。値崩れして依存症患者が続出するくらいなら、庶民には手の届かない贅沢品であって然るべきだろう、と考えるようになる。

一方、リゾートルックの裕福な外国人がひしめくホテルのバーでは、カクテル一杯が26ドル。ただでさえ高い酒に、さらに関税がかかるような一物二価だ。ほらな、嗜好品に溺れて堕落する愚かなよそものは締め出すに限るんだ。麻薬を持ち込んだ入国者は死刑という法律だって、まぁ妥当なもんじゃないか。と、物の値段を軸に、善悪の判断基準がシンガポール仕様に引きずられていく。

中心地を網羅する地下鉄やバスなどの公共交通機関は、運行が正確で設備も清潔、そして初乗り料金が安い。どこへでも行けるね、と感激していたら「そのぶん自家用車がアホみたいに高いんだよ」と教わった。狭い国土で交通渋滞を抑制するには、自動車台数それ自体を減らせばよい、というわけで、自動車税をはちゃめちゃに重くしているのだとか。

何かを見て「高ッけーな!」と有り金を惜しみ、また何かを見て「安ッすいなー!」と大喜びするたびに、一般的な市場競争原理よりもさらに強いエネルギーの「脅し」が我が身に効いているのを感じる。あるべき国民像も、それを実現するシステムも、完璧にデザインされている。我々はただ、賢く「お金」を使いながら、それをなぞっていくだけでいい。

クレイジーリッチは見かけても物乞いの姿はない、安心安全な街。教育水準も高く、愛国心も熱い。みんなで豊かになれば、いがみ合いもなくなる。金持ち喧嘩せず、優等生だけで成長を続ける明るい未来。もしこのユートピアがお嫌なら、どうぞお好きに、もっと不潔で醜悪で自堕落で殺伐とした、別の国家へお行きなさい。でも、この国が一番いいですよ。麻薬とチューインガムと唾を吐くこと、あと同性愛は違法だけれど、それさえ我慢すれば、「自由」に生きていられるんですから。

全年齢対象の夢と魔法のワンダーランドがそのまま独立したような、マンガみたいな国だった。そんな人工楽園の中でもとくにきちんと整備されていたのが、シンガポール植物園だ。ここでは辿るべき道筋がすべてきれいに舗装されている。見たい野生が、見るべきところに、きちんと展示陳列されている。池の蓮葉は間引かれ、ランも蔓草も針金でたわめられて、すくすく育つ。食物連鎖を解説するため、菌類の床になる密林の切り株までもが、生花のようにディスプレイされている。

だが、何時間も緑の中を歩いたのに、なぜか一箇所も虫に刺されなかった。そんなことってあるだろうか。ハイヒールでだって散策できそうな熱帯雨林のトレイルは、そのままこの国の模型のようだ。困惑や混沌はどこにもないし、幼い子供も迷子にならない。人の手で制御できないものはない。理想に従って歩いていけば、全員がハッピーにゴールへ到達できる。そんなメッセージが泉のように湧き続け、高湿な空気と一緒に、肌身にぐいぐい浸透してくる。完全無料で。