【最終回】Case12 一陽来復

 

 

 

 

店員さんが階下へと降り、また二人だけの空間となった。彼と静かな乾杯を交わし、ラバーズ・ドリームを一口だけ飲めば、まろやかな口当たりの後、甘さがじんわりと口の中に広がっていく。味は美味しい筈なのに、いつもより早くなっている鼓動のせいでいまいちこのドリンクを楽しめない。暫し、沈黙が流れる。彼のドリンクの氷がカランと音を立てた。その音と同時に彼が口を開いた。

 

「何だか、綺麗になったね。痩せた?」

 

私が複雑な心境でいることを知ってか知らずか、記憶の中の彼と変わらぬ声色だ。静かに頷くだけで、視線すら合わせようとしない私に彼はまるで動じていない。むしろ、この様子が想定の範囲内かのようだった。彼がiPhoneを手に取ったと同時に、恐る恐る彼へと視線を移す。表情も、出で立ちも、まるであの頃と変わっていない。安心感を覚えたが、私との再会さえも特別でないように思え、心臓が少しばかりちくっとした気がした。

 

「…もう、会わないんじゃなかったんですか」

 

本当はもっと沢山言いたいことはあったが、振り絞って出した言葉には可愛げの欠片も無い。iPhoneから私に視線を移した彼と目が合う。その瞬間、自分の中に押さえ込んでいた感情がこれでもかというぐらい溢れ出しそうになったが、必死で堪える。ここで私が感情的になれば、ここに来た決心が水の泡だ。もう、あの頃の私とは違う。彼の記憶にいる私とは違う。そう言い聞かせ、彼からの返答を待つ。

 

「そう思ってたけど、状況が変わったんだ」

 

「状況?」

 

「分かっているのに聞き返すのは良くないよ」

 

全てを見透かされているようなその瞳は、私が大好きな瞳だった。けれど、彼の言葉で現実に戻される。彼は気づいている。私と弟のことを。

 

「透和くんのこと、でしょ」

 

「そうだよ」

 

「透和くんから、何か聞いたの?」

 

「細々とした内容は聞いてないよ。ただ、あいつからお願いされたんだ」

 

一瞬、今まで見たことが無い“兄”の顔をした彼に何かを感じる。

 

「お願い…?透和くんは元気なの?」

 

脳内に透和くんとの思い出が次々に過っていく。出会った日から、お互いの身の上話から何も意味が無いおしゃべり、二人で歩いた街並み、そして…あの日の電話。連絡が絶たれてから、今日に至るまで。忘れようとはしたけど、忘れることなんて一日すら出来なかった。したくなかった。

 

「透和くんは、今、何をしてるの。ちゃんと生きててくれてるの」

 

はらはらと頬に涙が零れていく。次第に視界が曇り、一生懸命に声を殺しながらも、嗚咽していた。

 

「兄弟揃って、眞代を泣かせてごめん」

 

「そんな言葉が欲しくて、ここに来たんじゃない」

 

「そうか」

 

「透和くんは、どうしてるの。答えて」

 

涙をおしぼりで拭き、真っ直ぐ紘和さんを見つめた。きっと化粧もぐちゃぐちゃで、酷い顔をしているだろうけど、そんなことは気にも留めない。

 

「今、入院してるよ」

 

予想外の言葉に絶句してしまったけど、生きているという事実を知り、安堵感を抱いている自分もいた。

 

「何で入院してるの」

 

「君も知ってると思うけど、あいつは薬物とアルコールの過剰摂取を繰り返していた。そして、俺といる時に倒れて搬送されたんだ」

 

「そんなことが…」

 

「命に別状は無かった。でも、あいつは自分から依存症の治療を受けたいと言ってきた。正直、びっくりしたよ。俺が繰り返し注意をしても、他人事のように聞いていた人間が入院したいと頭を下げてきた。何でだと思う?」

 

「分からない」

 

「眞代の存在だよ」

 

「え」

 

想像以上に大きな声が出てしまい、思わず口を手で覆う。透和くんが治療を受けようとした理由が私という事実に頭が混乱する。何故、私なのか。散々傷つけ、裏切った相手が理由になるのか。戸惑いを隠せない私に彼は続ける。

 

「俺の口から言うよりも、本人の言葉で知った方がいい。これは、透和から預かったもの」

 

渡されたのは、青みがかった白い封筒だった。封のされていないそれを開けると、丁寧に折られた何枚かの便箋が入っている。男性にしては、綺麗な文字で文章がびっしりと綴られていた。

 

 

『眞代へ

 

連絡を返せていなくてごめん。連絡だけじゃない。苦しめて、本当にごめん。

俺は眞代と兄さんの関係を知っていた訳じゃない。たまたま、眞代の名前を兄さんの前で出した時、思わぬ反応をされて気になったのが始まりだった。

俺は昔から、兄さんに勝ちたかった。でも、勝てたことは一度も無い。

何をするにしても、兄さんは俺より上の上へと行ってしまう。

だから、兄さんが反応した“出海眞代”を手に入れたら、兄さんに勝てると思ったから、眞代に近づいたんだ。でも、あの時、渋谷で眞代を助けたのは、出会ったのは偶然だった。

思わぬ形で自分のターゲットと出会えたことに心が躍ったよ。

そこから仲良くなっていくのも、悪い表現だけどゲーム感覚でしかなかった。

電話で酷いことを言ってしまった時も、その後どうやって眞代を手に入れるかだけを考えていた。俺は本物のクズだよ。憎んだり、恨んだりされても、俺は甘んじて受け入れる。

けど、予想外の事態が起きたんだ。俺にとって、眞代はかけがえのない存在になってた。

兄さんとか、そんなものを抜きにしても、俺は君に惹かれていたんだ。

とんだ自己中野郎だな。兄さんの前で倒れて、病院へ運ばれて、目を覚ました時、

真っ先に考えたのは眞代のことだったよ。すぐに連絡したかったし、会いたかった。

すごく会いたかった。会って、してきたことのすべてを謝りたかった。

その考えがすごく傲慢だという自覚はあった。だから、償う前に自分に罰を与えた。

ちゃんと自分と向き合って、苦しくても、眞代を傷つけるかもしれない自分と別れ、

胸を張って会いに行こうって決めたんだ。

退院して、すぐにとは言えない。自信を持って会える日までは、連絡さえもしない。

眞代にとっては、戯言と感じると思う。仮に俺が連絡をしても、無視したっていい。

ただ、少しでも、ほんの少しでも、待っていてくれる気持ちがあるなら、これ以上嬉しいことは無いよ。

眞代。俺と出会ってくれて、大切なことに気付かせてくれてありがとう。

 

透和より』

 

 

文章のインクが滲んでいく。紘和さんがゆっくりと肩を抱いてくれた。あまりにも真っ直ぐすぎて、自分にも他人にも正直すぎる彼の本心がそこにあった。ある意味、叫びにも似ているように思えた。決して、感情に流されまいと決めていたけれど、その決心は溶け崩れ、気が付けば紘和さんの胸をこれでもかと濡らす。彼はそんなことを気にすることなく、胸を貸し続けてくれた。

 

 

 

私は、ただひらすらに春を待つ。