【最終回】第二十二回「磯で深く息を吸う」

 

 

 

友人たちと沖縄の山と磯に行ってきたので、そのことばかり思い出している。

夜の山でカエルや葉っぱのかげに眠る虫たちを観察したのもよかったが、やっぱり磯が楽しかった。大潮でできた浅瀬に入っていくと、最初は岩がヌルヌルしているだけで何もないように見える。しかし、足首に水のつめたさを感じながらじっと見下ろしていると、水底に転がった貝殻からヤドカリの毛むくじゃらの脚が伸びてくる。岩の中でネオンのように青緑色に光っているのは、ヒメシャコガイの外套膜だ。砂色のハゼがピコピコとなわばり争いしている。足元が、気が遠くなるほどたくさんの生きものでざわめいている。

シュノーケルをつけて身を沈めていくと、耳が水に潜った瞬間にコポッと音がして、陸のすべてが一気に遠ざかる。自分のくぐもった呼吸音と額にぶつかって揺れる水の音、かすかな耳鳴りを聞きながら周囲を見回すと、水の色がすこし暗くなるあたりを流線型の魚がすばしこく泳いでいく。

 

ヤドカリをつかんで岩に上がると、友達のひとりが見つけたものを観察用のプラケースにせっせと放りこんでいる。彼女は採集能力がだんとつに高く、網と折りたたみのバケツをたくみに操って、ハリセンボンや吸盤がレースのように広がる愛らしいカクレダコ、とぼけた顔つきの小さなウツボまで採ってきた。磯の生きもの満漢全席(今回は食べません)に狂喜し、「すごい」「めちゃくちゃかわいい」「なんでこんな擬態が上手なタコを見つけられるの」「ふつうは見つけても捕まえられない」「天才だ」と口ばしる一同。

彼女は照れながら「生きもの見つける能力をほめられるの、心からうれしいですね……」と言った。彼女は、かしこくてタフで心遣いもこまやか、基本的にほめるところしかない人間だ。だが、ふだんはほめられるとシャコのように砂を蹴立ててシュッと身を隠しがちでもある。

「小さいころから野山で磨いてきた能力が、友達に喜んでもらえてるって最高だなあ」

めずらしく素直な彼女を見て、意識して伸ばしてきたことをほめられるのは居心地悪くないんだ、と思った。そして、居心地悪いほめられ方もたくさんしてきたんだろうな、とも。

 

若い女性がほめられると言えば、かなりの確率で見かけのことだ。その話しかできんのか、と思うほどに。

「見かけをけなすのは良くないが、ほめるのであれば失礼にならないだろう」という人もいる。しかしわたしの知るかぎり、とにかく外見の話をされること自体がすごく苦手で、もしほめてくれるならそうなりたいと努力してきた部分をほめてほしいんだ、という人だってすごく多い。

見かけの話をすることに注文がつきやすくなった世の中は窮屈だ、きれいだと思ったら率直に口に出して何がいけないんだ、という感想を見ることがある。花でも夕焼けでもなく心がある相手に対して、ほめ言葉がどう伝わるかまず配慮すべき、という大前提は措いといて、そもそもそれが本当に「純粋な」賞賛、夕焼けを見て自然にきれいだなともらすのと同じものか、と考えなおす必要もあるのではないか。

外見に関係なく役務を提供しあうはずの職場で、外見のことばかり話していないか。「あなたみたいな若くてきれいな人が○○の分野にいるなんてね」と、分野ごと貶めてお客さん扱いしていないか。どこかで隣り合っただけの女に、華やかさや癒しや座持ちを求めていないか。自信がない女を好んで狙う人間も多い。

「外見の話をするのはどこまでOKか、どこからがセクハラか」みたいな外形基準の話をする前に、目の前の相手が何を好きで何になりたいのか、そのためにどう頑張っているのかを見ていかないと、無駄に人を傷つけて嫌がられることばかりが増える。「モテ」に関する言説は、保守的な価値観をどううまく利用するかや、あえて男女をぶった切るパワーワードでおもしろくしようとすることが多いけれど、本当は「個人をしっかり見ることがいちばんおもしろい」がスタート地点になればいい。

 

先ほどあげた例は男性から女性に対する抑圧を想定したものが多いけれど、見かけに対する圧力は、当然だが男性から女性に向けられるものばかりではない。

先日、女優と芸人の結婚記者会見について、女性のコメンテーターがワイドショーでした発言が炎上していた。彼女は「いわゆるブサイクで売っている芸人さんを夫に選ぶなんて、自分なら子供の顔を心配してしまう。綺麗な人はそういうコンプレックスがないんだなと思いました」という趣旨のコメントだった。コメンテーターの本業は産婦人科医で、結婚と出産を安易に結びつける点で、職業倫理的にもまずい発言だったと思う(その後、彼女は謝罪している)。

怒りや呆れだけでなくしんとした気持ちになったのは、たぶんだれかに見かけのことで深く傷つけられたことが、そういう発想や発言につながったんだろうなと思ったからだ。自虐をふたまわりくらいひねった表現が非礼に転じたという印象を受けた。自虐から出てくる言葉は、他人への攻撃性チェックが甘くなる怖さがある。

 

わたしは自分の外見をおおむね愛していて、見た目をほめられたら「おわかりいただけたようだ」と思える傲慢さがある。それでも外見に関する話には、容易に胸に黒いものが兆す。

思春期に、男の子みたいなショートカットから髪を伸ばしていざ女子高生という見た目になってみたら、同級生や教師の接し方はずいぶん変わった。図鑑の「サルから人へ」のページを見るみたいな目だ。顔立ちとか性格や発言よりも大事なのは、「わたしはみんなに愛されたい女です」というフォーマットに入ることだったんだ、と思った。それはそれでなんだかつまらない。鰓から肢を生やして陸に上がってみたが、ずいぶんと息苦しかった。

何年もかけてファッションの面白さがわかってきて、女らしさからはみ出すものも自分なりに楽しめるようになった。それでも見かけを貶められたり消費されたりしたいやな思い出はいくらでもあるし、絶賛更新中だ。ネットで顔も出していると、赤の他人からもブスだの太っただの好き勝手言われるし。

女優やモデルでさえブスだのなんだの言われているわけで、いちいち気にしてもしょうがない。気にせず顔面を晒し続けていれば親しみを持ってくれる人のほうがずっと多いし、とやかく言うほうが間違っていて醜いのだから、嫌な人ばかり気にしてやりたいこともやれないのがいちばんもったいない。何度も考えたことだからわかっているけれど、他の人にまでそういう風に思えよ、気にするなよ、とは思えない。

本当は、ブスと言われたときに必要なのは自虐や理論武装で心を鎧うことではない。そういうことを言われたときに、真正面からちゃんと傷ついて、泣きながら石をつかんで反撃に行けたらいちばんいいのになと思う。

 

友人たちと集まって話すとき、最近よく頭に浮かぶイメージがある。「海で生まれてふだんはむりやり陸に上がっているハゼみたいな生きものが、海でふたたび合流した」みたいな感じだ。いや、5億年くらいのスケールで見れば人類みんな、海から上がった生きものなんだけど。

磯は明るくて海水はあたたかく、言葉はくぐもってやさしくなるけど波になってよく伝わる。ハゼたちは寄り集まって、陸のしんどさについての話もする。そこで、陸での理不尽に対抗するパワーや自分も理不尽の一部になってないか、という自戒の気持ちをもらうことがある。

すべての人と自分の磯を共有できるわけではないけれど、知らないだれかにもその人の磯があればいいなと思う。だれかを好きになる力も、そこから湧いてくると思うからだ。

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サイトの更新停止により、本連載は今回が最終回となります。

加筆訂正の上、書籍化を予定しています。詳細については後日、執筆者サイト(https://mereco.hatenadiary.com)・Twitter(https://twitter.com/merec0)等にてお知らせいたします。