【最終回】第二十三回「寄付:おこのみで」


 

 

日本には寄付文化が根づきにくいと言われる。たしかにそうかもな、とは思うが、理由がよくわからない。寄付という言葉の本来の意味、金品の無償供与による経済活動で社会に参加すること、というよりは、そもそも「お金を払う」こと自体を憎むほど嫌っている人たちを、少なからず見かける。世間がお金をさも汚いもののように教えるから、それを手放すことも身につかないのだろうか。もっと淡々とやればいいのに。

私が幼少期を過ごしたキリスト教系の学校は、教育の一環として慈善活動に取り組んでいた。生徒たちは小学生の頃から、時には自分より年上だったりもする海外の貧困女児たちの「里親」だった。季節ごとにチャリティバザーが開催され、歳末助け合いには毛布やセーターや石鹸を届け、課外活動でさまざまな施設を慰問し、募金箱を持って街頭に立つ。

他人の不幸が絡むとやたら活き活きと目を輝かせだす習性を持った修道女たちから、いずれもとても大切なことだと教わり、一定の納得をしつつ、しかし欺瞞も感じていた。時折、ホームルームで募金箱が回ってくる。一律百円とか五百円とか金額は決められていて、大半の生徒がそれを、親にせびったコインで払う。多く出しすぎてもいけないが、宿題と同じで出さない権利もない。つまり募金ではなくただの「集金」だ。私立校なんだから学費から天引きしろよと思う。

いやいや、生徒に直の体験を積ませることこそが教育ですよ、ノブレスオブリージュ(持てる者の義務)の練習なんですよ、というわけで、中学に上がるとフィリピンの里子へ英語で手紙を書く。あるとき教師から、あなたがたはペンパルだ、と言われた。や、違うだろ。どんなに幼くとも、我々は尊大になってはならない支援者で、先方は恐縮しすぎてはいけない支援対象で、純粋な文通と同じ対等性は望めない。相対的に見て強者である我々は、世に尽きせぬ分断を生む社会の不均衡と立ち向かうため、慎重に手紙の文面を選んでいる。はした金を渡して弱い立場の人間に友達ゴッコを強要するなんて、クズ成金のすることだ。

我慢が限界に達したのは高校生のとき、赤い羽根共同募金の集計作業中だった。この日は全校生徒が数名ずつのグループになって、朝から都内各所に配置される。低学年は学校の最寄駅、年長になると徐々に繁華街を任される。夕方に募金箱を学校へ持ち帰り、開封して、集計して、担任に届ける。あるグループが集計を終えたとき、額を見た教師が「××さんの班、さすがー」と声を漏らしたのを私は一生忘れない。

この××さんは学年一の美貌を誇り、問題行動の多いコギャル系グループに属しながらも色白で令嬢然とした気品があり、道を歩けば芸能事務所のスカウトマンが列をなす、と噂される生徒である。要するにこの教師の「さすが」は、「制服美少女を虎ノ門や新橋の駅前に立たせておけば、オッサンたちの背広の襟に頬寄せて手ずから赤い羽根を挿し込む肉体奉仕の対価として、ブスの生徒より多くの金額を持ち帰るという事前予測が、期待通りに的中した」という意味だ。

それって援助交際と何が違うんだ? 彼女たちの班よりアガリの少なかった私たちの班は、試験の点数が低かったときのように小さくなって反省すべきなのか? 普段は短すぎるスカート丈を厳しく叱っているくせに、今日は本校が誇るべき「さすが」な生徒ってか? いたいけな子供に声を上げさせ、怪我した犬猫を並べる募金団体は他にもたくさんあるし、怒るなら美人を選んで金落とすオッサンを怒れって話かもしれないが、それにしたって「寄付」を学ぶ課外活動として、完全にアウトな発言だ。

 

 

もう無理、もう耐えられない、高校を卒業したら私は絶対に、二度とこんな茶番には付き合わないぞ、と心に決めた。「寄付をしない」という意味ではない。大人になったら、稼ぎを得たら、誰にも額面や相場や頻度をとやかく指示されない絶対的自由のもと、支援対象からも支援団体からも胸元に募金箱下げた制服女子高生からもいっさいリターンを求めず、『足ながおじさん』よろしくベタベタ文通したりもせずに、混じりっけのない本物の、「寄付をする」ぞ。社会的不平等を少しでも減らすため、自分自身の信じるところにのみ依って、ただただただただ淡々と、金だけを、落とすんだ。

自分の生活もカツカツで他人にくれてやるほどの金がない? 貴様の給与振込口座に毎月支払われているのは金ではないとでもいうのか。先進諸国では失業者だってチップをはずみ、借金返済中でも路上生活者に施しをして、定職に就いたらさらに多くの金を費やし、他でもない高額納税者たちがもっと重い富裕税を課すべきだと主張したりもするんだぞ。海の向こうで難民が餓死する映像を観ながら「我が国は恵まれている」と言うくせに、することといえば手元の茶碗の米粒を残さず食うばかり、求められたら「金がない」って、どういう了見だ。

日本には寄付文化が根づきにくいと言われる。たしかにそうかもな、とは思うが、私には理由がわからない。すればいいんだ。当たり前だろう。そりゃあ私だって学費ローンを完済するまではそんなことに手も頭も回らなかったけれど、感謝状や赤い羽根なんかもらえなくたって、税額控除が低かったって、いい年した稼ぎのある大人なら、意味とか意義とか考えず、全員やればいいのである。たまに親しい友達と会うとき、ちょっとした手土産を買っていくのと変わらない。特別な手続きは要らないし、スマホからだってワンクリックでできますよ。

言い方は何だが、支援先を対等な存在と勘違いするから金払いが悪いのではないか。だったら相手を雲の上の神様だと考えてみればいい。神社の賽銭箱に投げ入れた額を家計簿につける馬鹿はおるまい。いたらごめんなさい。え、でも勘定科目は? 祈祷料? 今ぐぐったら、事業者が商売繁盛を祈る場合は領収書無しでも経費計上できるらしいですね。まぁでもさ、多くの人は、日々カツカツの生活の中で、たまたま残ったお金を、たまたま居合わせた聖なる存在の前で、気まぐれに投げ出すだけだろう。そうして一方的に祈りを捧げ、だけど唱えたその願いは、明日からまた自力で叶えていくだけだろう。おみくじが外れたからって金返せと訴える馬鹿はおるまい。いても謝らんぞ。

財布にはいつも必ず小銭が入っている。どう使うかは、私自身が決められる。酒を飲んでもいい、芝居を観てもいい、服を買ってもいいし、マッサージを受けてもいい、花束を買って帰るのもいいだろう。金がない金がないと嘆く若者に飯を奢ってやってもいい。金がない金がないと自分で嘆きながら、神社に教会に赤十字にUNHCRに環境保護に被災地に喜捨したっていい。同じ額を払うなら、なるべく気持ちが良くなるものがいい。なるべく社会が良くなることがいい。

大事なのは、払った時点ですかさず、自分で自分の気持ちを良くすることである。つまりは過剰な見返りを求めないことである。たかが一晩の飯代を奢ったくらいで後輩に偉そうな態度をとってはならないし、どれだけ感謝されてもそれはセックスOKのサインではない。そんなことだからモテんのだぞ。同様に、俺は金持ちだから毎年どこそこへ高額寄付をする、などと触れて回り、賢い節税スゴイスゴイと拍手されるのもナンセンスである。

寄付をするという行為に値段はつかない。支払う金額の多寡はあれど、それは、お金であってお金ではない。財布を開いたらもう、払うより前に自分の所有物でなくなる。対価や商品を受け取る消費行動だって同じかもしれない。その金を、払うのは私。他の誰でもない私だ。だが、その金は、たまたまここにあっただけで、次は誰かに渡っていくもので、そうして社会を循環していくものなのだ。

この世のどこにも「正しい」価値なんてない。誰かがそれを教えてくれることはない。自分自身の信じるところにのみ依って、我々は、ただただただただ淡々と、金だけを、落とすんだ、回すんだ、意味とか意義とか考えず、そうして気持ちを上げていくのだ。この連載媒体が更新終了した後も、そのことを時折、思い出してみてほしい。きっとモテるよ。